1973年、ミリオンヒットとなったかぐや姫の「神田川」は若い男女の同棲生活を赤裸々に綴り、当時の若者の心を捉えた。
この曲に込められた「幸せのメッセージ」を、南こうせつ、喜多條忠(作詞家)と、思い出の神田川を訪ねながら明らかにしていきましょう。
1973年、かぐや姫が歌った「神田川」。男女の同棲生活を赤裸々に歌ったこの曲は、当時の若者の心を捉え、ミリオンヒットとなった。
曲のタイトルとなっている神田川は、井の頭公園を水源とし、東京の中心部を流れている。‘70年代初頭、学生相手の下宿が多かった地域を南こうせつとともに訪ねた。
「今も汚いなあー。田舎の川で育った人がこの曲を聞いて東京へ来て、この川を見たらがっかりするんだろうまぁ・・・・あれから30年経ったんだねぇ・・・。」
彼は、川面を見つめながら感慨深くつぶやいた。
南こうせつはデビュー当時、ラジオ局を中心に活動していた。そして「神田川」は、文化放送で知り合った喜多條忠(きたじょうまこと)との出会いによって誕生する。
当時放送作家だった喜多條が台本をもの凄い速さで書いているのを見て、南は作詞を頼み込んだのだ。
「『2人で名曲をつくりましょうよ!天下を取りましょうよ!!』って言うんで、さっきまで新人歌手として神妙にしていたのが、すごい変わりようだなぁと思いました。私は当時,現代詩を書いていて、歌の歌詞は作ったことがなかったんですが、『どんな詩にも曲つけますよ!』と言うもんですから、大した自信だなあ、と思う反面、これは何か大きいことが出来るかもしれない、とも思ったのは確かですね。」(喜多條)
こうして、南と喜多條、2人のコンビが初めて作った歌は、「マキシーのために」。
まだ燃焼しきれていないエネルギーを感じました。気持ちを自分で詞にすると薄っぺらくて上手くいかないんですけど、それを喜多條さんが上手く代筆してくれたんですよ。」(南)
この曲はそれまでにない斬新な歌詞で当時の若者の心をつかみ、好評だった。
「神田川」が生まれたのは、この2年後。南は再び喜多條に作詞を依頼した。
「今度は、どうせ書くなら自分の通ってきた道、思ってきたことを込めて書きたいと思いました。」(喜多條)
喜多條は締切の日、偶然神田川に立ち寄り、神田川沿いのアパートで同棲していた学生時代のことを思い浮かべた。
「学生の頃、彼女の下宿に行って窓から見えるこの川を見たとき、すごい汚くて、『暗渠(あんきょ)』だと思っていました。 僕は4畳半で彼女は3畳。夜、二人で寝る時には机とちゃぶ台を廊下に出したりした、そんな生活の姿も蘇りました。そこに僕の当時の暗さとか苛立ちとか、そういう青臭さが表れている気がしました。」(喜多條)
喜多條は書き上げた詞を、南に電話で伝えた。
それを聞いた南は・・
「詞を電話で聞きながら、自然と口ずさんで歌ってみました。 何か、上から乗り移ったというか、トランス状態というか・・・。」
何故、南は歌詞を聞いた瞬間、メロディが浮かんで来たんだろうか?
「僕も学生時代同棲していたから、この風景と気持ちがよくわかったんですね。」
「神田川」は、当初アルバム「かぐや姫さあど」の一曲として発表される。
しかし、ラジオで紹介されると、リクエストが殺到。急遽、シングルカットされた。
かぐや姫の他のメンバー達は・・・・
「この曲はフォークの枠を超えちゃってると思いましたね。」(山田パンダ)
「僕も地方から出てきたので、この曲にはとても共感できました。」(伊勢正三)
「神田川」は、日米安保問題や学費の値上げなどを巡る、学園闘争が終わりを告げた時代の若者の心を捉えた。
「国を憂える前に、ごく身近な人々を愛することが大切なのではないか?それが出来なければ国も世界も憂えることが出来ないのではないか?」(南)
喜多條も、学生闘争に参加したひとり。闘争が終わって、実社会に出た学生たちは、否が応でも働かなければならなかった。喜多條はそんな時、「神田川」の詞を書いた。
自分達がしてきたことが悪いというのではなく、『こう生きてきた』、という記録のつもりで書きました。それをくぐってきた同世代へのエールのつもりで。どう捉えられたかはわからないけれど、自分では自分自身へのエールだとは思っていました。」
喜多條は捨てきれない学生時代の思い出を次々と「神田川」の歌詞に綴っていった。
「『若かったあの頃何も怖くなかった』というフレーズまで書いて一番を終わりにしようかと思ったとき、じゃ、何が怖かったのかな?と考えました。親も学校も怖くない、同棲していた彼女も優しかった。ただ、彼女がカレーを作っている後姿を見ていて、こうして一生を終えてしまうのではないか、ということが怖かった。他にまだ出来ることがあるのに、このまま埋もれていってしまうということが怖かったですね。」(喜多條)
それが最後の一行「ただあなたの優しさが怖かった」という詞になった。
当時の若者の心を捉え、ミリオンヒットとなった「神田川」。
しかし、この2年後、南こうせつは人気絶頂の中、突然「かぐや姫」を解散。
そして、南は「神田川」を歌わなくなってしまった。
「逃げたかったんです。この曲のヒットからいつもイメージが僕らにつきまとう。『四畳半ソング』と言われたりして、次のステップへ進む重荷になってしまったんです。それを振り切るためには、この方法しかないのだと思いました。」(南)
「レッテルを貼られたくない」。南は都会の喧騒を逃れ、20年前、故郷の大分に移り住んだ。 自分のペースに合った生活をしたい。
そんな思いから南は、自然にあふれた生活を選んだ。
海で魚を釣り、畑で野菜を育てながら音楽を作る毎日。
そんな彼が、再び「神田川」を歌うようになったのは、奇しくも大分に移り住んでからのことだった。
「やっぱりこの曲の力はすごいんですねえ。ある日テレビでこの歌を歌ったら、どっとハガキが来ました。そんなに皆さんがご希望されるのなら・・・ということで歌うようになりました。大人になったんですね、僕も。それだけ自分には大きい歌です、今では。 若い頃は何もないなりに楽しかった。お金が出来て、欲しかったクルマとかを持てるようになったとしても、願うエネルギーが少なかったら、きっと『四畳半』の頃よりも幸せではないんでしょうね。 『憧れ続けるから生きている』ということでしょうか。」(南)
「若かったあの頃」と同じように、未来の自分に憧れながら生きたい。
南こうせつは、きょうも「神田川」を歌う。
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