日语阅读 挪威的森林

来源: wanghongjie | 更新日期:2015-04-15 22:28:30 | 浏览(17)人次

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第二章

  昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし、一人ぐらしをするのも初めてだったので、親が心配してその寮をみつけてきてくれた。そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンドさえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたのだ。

  その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いコンクリートの塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は少くとも百五十年ということだった。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。

  コンクリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び長い直線となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋コンクリート三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物で、アパートを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したアパートみたいな印象を見るものに与える。しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。開け放しになった窓からはラジオの音が聴こえる。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。

  舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。一階には食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使うのかは知らないけれど貴賓室まである。本部建物のとなりには三つめの寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広く、緑の芝生の中ではスプリンクラーが太陽の光を反射させながらぐるぐると回っている。本部建物の裏手には野球とサッカーの兼用グラウンドとテニス?コートが六面ある。至れり尽せりだ。

  この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており、その運営方針は――もちろん僕の目から見ればということだが――かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内のパンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのところはわかる。「教育の根幹を窮め国家にとって有為な人材の育成につとめる」、これがこの寮創設の精神であり、そしてその精神に賛同した多くの財界人が私財を投じ……というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは例によって曖昧模糊としている。正確なところは誰にもわからない。ただの税金対策だと言うものもいるし、売名行為だと言うものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐欺同然のやりくちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読みがあるんだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の閥を作ろうというのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮には寮生の中のトップ?エリートをあつめた特権的なクラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく知らないけれど、月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いており、そのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった。そんな説のいったいどれが正しくてどれが間違っているのか僕には判断できないが、それらの説は「とにかくここはうさん臭いんだ」という点で共通していた。

  いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。

  寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れるし スポーツ?ニュースからマーチが切り離せないように、国旗掲揚から国歌は切り離せない。国旗掲揚台は中庭のまん中にあってどの寮棟の窓からも見えるようになっている。

  国旗を掲揚するのは東棟(僕の入っている寮だ)の寮長の役目だった。背が高くて目つきの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首筋に長い傷あとがある。この人物は陸軍中野学校の出身という話だったが、これも真偽のほどはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らない。丸刈りで、いつも学生服を着ている。名前も知らないし、どの部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂でも一度も顔をあわせたことがない。本当に学生なのかどうかさえわからない。まあしかし学生服を着ているからにはやはり学生なのだろう。そうとしか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背が低く、小太りで色が白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の丸をあげるわけだ。

  僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛国的儀式を見物したものである。朝の六時、ラジオの時報が鳴るのと殆んど同時に二人は中庭に姿を見せる。学生服はもちろん、学生服に黒の皮靴、中野学校はジャンパーに白の運動靴という格好である。学生服は桐の薄い箱を持っている。中野学校はソニーのポータブル?テープレコーダーを下げている。中野学校がテープレコーダーを掲揚台の足もとに置く。学生服が桐の箱をあける。箱の中にはきちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学校にうやうやしく旗を差し出す。中野学校がローブに旗をつける。学生服がテープレコーダーのスイッチを押す。

  君が代。

  そして旗がするするとポールを上っていく。

  「さざれ石のお――」というあたりで旗はポールのまん中あたり、「まあで――」というところで頂上にのぼりつめる。そして二人は背筋をしゃんとのばして(気をつけ)の姿勢をとり、国旗をまっすぐに見あげる。空が晴れてうまく風が吹いていれば、これはなかなかの光景である。

  夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこなわれる。ただし順序は朝とはまったく逆になる。旗はするすると降り、桐の箱の中に収まる。夜には国旗は翻らない。

  どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由がわからなかった。夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているし、働いている人だって沢山いる。線路工夫やタクシーの運転手やバーのホステスや夜勤の消防士やビルの夜警や、そんな夜に働く人々が国家の庇護を受けることができないというのは、どうも不公平であるような気がした。でもそんなのは本当はそれほどたいしたことではないのかもしれない。誰もたぶんそんなことは気にもとめないのだろう。気にするのは僕くらいのものなのだろう。それに僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただけで、それを深く追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。

  寮の部屋割は原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部屋ということになっていた。二人部屋は六畳間をもう少し細長くしたくらいの広さで、つきあたりの壁にアルミ枠の窓がついていて、窓の前に背中あわせに勉強できるように机と椅子がセットされている。入口の左手に鉄製の二段ベッドがある。家具はどれも極端なくらい簡潔でがっしりとしたものだった。机とベッドの他にはロッカーがふたつ、小さなコーヒー?テーブルがひとつ、それに作りつけの棚があった。どう好意的に見ても詩的な空間とは言えなかった。大抵の部屋の棚にはトランジスタ?ラジオとヘア?ドライヤーと電気ポットと電熱器とインスタント?コーヒーとティー?バッグと角砂糖とインスタント?ラーメンを作るための鍋と簡単な食器がいくつか並んでいる。しっくいの壁には「平凡パンチ」のビンナップか、どこかからはがしてきたポルノ映画のポスターが貼ってある。中には冗談で豚の交尾の写真を貼っているものもいたが、そういうのは例外中の例外で、殆んど部屋の壁に貼ってあるのは裸の女か若い女性歌手か女優の写真だった。机の上の本立てには教科書や辞書や小説なんかが並んでいた。

  男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底にはかびのはえたみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空缶には吸殻が十センチもつもっていて、それがくすぶるとコーヒーかビールかそんなものをかけて消すものだから、むっとするすえた匂いを放っている。食器はどれも黒ずんでいるし、いろんなところにわけのわからないものがこびりついているし、床にはインスタント?ラーメンのセロファン?ラップやらビールの空瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。ほうきで掃いて集めてちりとりを使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。風が吹くと床からほこりがもうもうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひどい匂いが漂っている。部屋によってその匂いは少しずつ違っているが、匂いを構成するものはまったく同じである。汗と体臭とごみだ。みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放りこんでおくし、定期的に布団を干す人間なんていないから布団はたっぷりと汗を吸いこんで救いがたい匂いを放っている。そんなカァ」の中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。

  でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように消潔だった。床にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カーテンさえ月に一回は洗濯された。偶の同居人が病的なまでに清潔好きだったからだ。僕は他の連中に「あいつカーテンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じなかった。カーテンはときどき洗うものだということを誰も知らなかったのだ。カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。「あれ異常性格だよ」と彼らは言った。それからみんなは彼のことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。

  僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりアムステルダムの運河の写真が貼ってあった。僕がヌード写真を貼ると「ねえ、ワタナベ君さ、ぼ、ぼくはこういうのあまり好きじゃないんだよ」と言ってそれをはがし、かわりに運河の写真を貼ったのだ。僕もとくにヌード写真を貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなかった。僕の部屋に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を見て「なんだ、これ?」と言った。「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだよ」と僕は言った。冗談のつもりで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまった。あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本当にそうなのかもしれないと思うようになった。

  みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕自身はそれほど嫌な思いをしたわけではなかった。こちらが身のまわりを清潔にしている限り、彼は僕に一切干渉しなかったから、僕としてはかえって楽なくらいだった。掃除は全部彼がやってくれたし、布団も彼が干してくれたし、ゴミも彼がかたづけてくれた。僕が忙しくて三日風呂に入らないとくんくん匂いをかいでから入った方がいいと忠告してくれたし、そろそろ床屋に行けばとか鼻毛切った方がいいねとかも言ってくれた。困るのは虫が一匹でもいると部屋の中に殺虫スプレーをまきちらすことで、そういうとき僕は隣室のカァ」の中に退避せざるを得なかった。

  突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。

  「僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。

  「地図が好きなの?」と僕は訊いてみた。

  「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作るんだ」

  なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと僕はあらためて感心した。それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだった。たしかに地図づくりに興味を抱き熱意を持った人間が少しくらいいないことには――あまりいっぱいいる必要もないだろうけれど――それは困ったことになってしまう。しかし「地図」という言葉を口にするたびにどもってしまう人間が国土地理院に入りたがっているというのは何かしら奇妙であった。彼は場合によってどもったりどもらなかったりしたが、「地図」という言葉が出てくると百パーセント確実にどもった。

  「き、君は何を専攻するの?」と彼は訊ねた。

  「演劇」と僕は答えた。

  「演劇って芝居やるの?」

  「いや、そういうんじゃなくてね。戯曲を読んだりしてさ、研究するわけさ。ラシーヌとかイヨネスコとか、ンェークスビアとかね」

  シェークスビア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。僕だって殆んど聞いたことはない。講義要項にそう書いてあっただけだ。

  「でもとにかくそういうのが好きなんだね?」と彼は言った。

  「別に好きじゃないよ」と僕は言った。

  その答は彼を混乱させた。混乱するとどもりがひどくなった。僕はとても悪いことをしてしまったような気がした。

  「なんでも良かったんだよ、僕の場合は」と僕は説明した。「民族学だって東洋史だってなんだって良かったんだ。ただたまたま演劇だったんだ、気が向いたのが。それだけ」しかしその説明はもちろん彼を納得させられなかった。

  「わからないな」と彼は本当にわからないという顔をして言った。「ぼ、僕の場合はち、ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。そのためにわざわざと、東京の大学に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君はそうじゃないって言うし……」

  彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それから我々はマッチ棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決めた。彼が上段で僕が下段だった。

  彼はいつも白いシャツと黒いズボンと紺のセーターという格好だった。頭は丸刈りで背が高く、頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だった。見るからに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んでいたわけだが本当のことを言えば彼は政治に対しては百パーセント無関心だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいつもそんな格好をしているだけの話だった。彼が関心を抱くのは海岸線の変化とか新しい鉄道トンネルの完成とか、そういった種類の出来事に限られていた。そういうことについて話しだすと、彼はどもったりつっかえたりしながら一時間でも二時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしまうかするまでしゃべりつづけていた。

  毎朝六時に「君が代」を目覚し時計がわりにして彼は起床した。あのこれみよがしの仰々しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないのだ。そして服を着て洗面所に行って顔を洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外して洗っているんじゃないかという気がするくらいだ。部屋に戻ってくるとパンパンと音を立ってタァ‰のしわをきちんとのばしてスチームの上にかけて乾かし、歯ブラシと石鹸を棚に戻す。それからラジオをつけてラジオ体操を始める。

  僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は八時くらいまで熟睡するから、彼が起きだしてごそごそしても、ラジオをつけて体操を始めても、まだぐっすりと眠りこんでいることもある。しかしそんなときでも、ラジオ体操が跳躍の部分にさしかかったところで必ず目を覚ますことになった。覚まさないわけにはいかなかったのだ。なにしろ彼が跳躍するたびに――それも実に高く跳躍した――その震動でベッドがどすんどすんと上下したからだ。三日間、僕は我慢した。共同生活においてはある程度の我慢は必要だといいきかされていたからだ。しかし四日めの朝、僕はもうこれ以上は我慢できないという結論に達した。

  「悪いけどさ、ラジオ体操は屋上かなんかでやってくれないかな」と僕はきっぱりと言った。

  「それやられると目が覚めちゃうんだ」

  「でももう六時半だよ」と彼は信じられないという顔をして言った。

  「知ってるよ、それは。六時半だろ?六時半は僕にとってはまだ寝てる時間なんだ。どうしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ」

  「駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここなら下の部屋は物置きだから誰からも文句はこないし」

  「じゃあ中庭でやりなよ。芝の上で」

  「それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランジスタ?ラジオじゃないからさ、で、電源がないと使えないし、音楽がないとラジオ体操ってできないんだよ」

  たしかに彼のラジオはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはトランジスタだったがFMしか入らない音楽専用のものだった。やれやれ、と僕は思った。

  「じゃあ歩み寄ろう」と僕は言った。「ラジオ体操をやってもかまわない。そのかわり跳躍のところだけはやめてくれよ。あれすごくうるさいから。それでいいだろ?」

  「ちょ、跳躍?」と彼はびっくりしたように訊きかえした。「跳躍ってなんだい、それ?」

  「跳躍といえば跳躍だよ。ぴょんぴょん跳ぶやつだよ」

  「そんなのないよ」

  僕の頭は痛みはじめた。もうどうでもいいやという気もしたが、まあ言いだしたことははっきりさせておこうと思って、僕は実際にNHKラジオ体操第一のメロディーを唄いながら床の上でぴょんぴょん跳んだ。

  「はら、これだよ、ちゃんとあるだろう?」

  「そ、そうだな。たしかにあるな。気がつ、つかなかった」

  「だからさ」と僕はベッドの上に腰を下ろして言った。「そこの部分だけを端折ってほしいんだよ。他のところは全部我慢するから。跳躍のところだけをやめて僕をぐっすり眠らせてくれないかな」

  「駄目だよ」と彼は実にあっさりと言った。「ひとつだけ抜かすってわけにはいかないんだよ。十年も毎日毎日やってるからさ、やり始めると、む、無意識に全部やっちゃうんだ。ひとつ抜かすとさ、み、み、みんな出来なくなっちゃう」

  僕はそれ以上何も言えなかった。いったい何が言えるだろう?いちばんてっとり早いのはそのいまいましいラジオを彼のいないあいだに窓から放りだしてしまうことだったが、そんなことをしたら地獄のふたをあけたような騒ぎがもちあがるのは目に見えていた。突撃隊は自分のもち物を極端に大事にする男だったからだ。僕が言葉を失って空しくベッドに腰かけていると彼はにこにこしながら僕を慰めてくれた。

  「ワ、ワタナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ」と彼は言って、それから朝食を食べに行ってしまった。

  僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。笑い話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。彼女の笑顔を見るのは――それはほんの一瞬のうちに消えてしまったのだけれど――本当に久しぶりだった。

  僕と直子は四ッ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた。五月の半ばの日曜日の午後だった。朝方ばらばらと降ったりやんだりしていた雨も昼前には完全にあがり、低くたれこめていたうっとうしい雨雲は南からの風に追い払われるように姿を消していた。鮮かな緑色をした桜の葉が風に揺れ、太陽の光をきらきらと反射させていた。日射しはもう初夏のものだった。すれちがう人々はセーターや上着を脱いて肩にかけたり腕にかかえたりしていた。日曜日の午後のあたたかい日差しの下では、誰もがみんな幸せそうに見えた。土手の向うに見えるテニス?コートでは若い男がシャツを脱いでショート?ハンツ一枚になってラケットを振っていた。並んでペンチに座った二人の修道尼だけがきちんと黒い冬の制服を身にまとっていて、彼女たちのまわりにだけは夏の光もまだ届いていないように思えるのだが、それでも二人は満ち足りた顔つきで日なたでの会話を楽しんでいた。

  十五分も歩くと背中に汗がにじんできたので、僕は厚い木綿のシャツを脱いでTシャツ一枚になった。彼女は淡いグレーのトレーナー??シャツの袖を肘の上までたくしあげていた。よく洗いこまれたものらしく、ずいぶん感じよく色が褪せていた。ずっと前にそれと同じシャツを彼女が着ているのを見たことがあるような気がしたが、はっきりとした記憶があるわけではない。ただそんな気がしただけだった。直子について当時僕はそれほど多くのことを覚えていたわけではなかった。

  「共同生活ってどう? 他の人たちと一緒に暮すのって楽しい?」と直子は訊ねた。

  「よくわからないよ。まだ一ヵ月ちょっとしか経ってないからね」と僕は言った。「でもそれほど悪くはないね。少くとも耐えがたいというようなことはないな」

  彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんのひとくちだけ水を飲み、ズボンのポケットから白いハンカチを出して口を拭いた。それから身をかがめ七注意深く靴の紐をしめなおした。

  「ねえ、私にもそういう生活できると思う?」

  「共同生活のこと?」

  「そう」と直子は言った。

  「どうかな、そういうのって考え方次第だからね。煩わしいことは結構あるといえばある。規則はうるさいし、下らない奴が威張ってるし、同居人は朝の六時半にラジオ体操を始めるしね。でもそういうのはどこにいったって同じだと思えば、とりたてて気にはならない。ここで暮らすしかないんだと思えば、それなりに暮せる。そういうことだよ」

  「そうね」と言って彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐらせているようだった。そして珍しいものでものぞきこむみたいに僕の目をじっと見た。よく見ると彼女の目はどきりとするくらい深くすきとおっていた。彼女がそんなすきとおった目をしていることに僕はそれまで気がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見るような機会もなかったのだ。二人きりで歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。

  「寮か何かに入るつもりなの?」と僕は訊いてみた。

  「ううん、そうじゃないのよ」と直子は言った。「ただ私、ちょっと考えてたのよ。共同生活をするのってどんなだろうって。そしてそれはつまり……」、直子は唇を噛みながら適当な言葉なり表現を探していたが、結局それはみつからなかったようだった。彼女はため息をついて目を伏せた。「よくわからないわ、いいのよ」

  それが会話の終りだった。直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はその少しうしろを歩いた。 直子と会ったのは殆んど一年ぶりだった。一年のあいだに直子は見違えるほどやせていた。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。彼女のやせ方はとても自然でもの静かに見えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった。僕はそれについて直子に何か言おうとしたが、どう表現すればいいのかわからなかったので結局は何も言わなかった。

  我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。僕と直子は中央線の電車の中で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだった。べつにどちらもたいした用事があるわけではなかった。降りましょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。それがたまたま四ツ谷駅だったというだけのことなのだ。もっとも二人きりになってしまうと我々には話しあうべき話題なんてとくに何もなかった。直子がどうして電車を降りようと言いだしたのか、僕には全然理解できなかった。話題なんてそもそもの最初からないのだ。

  駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕のあいだには常に一メートルほどの距離があいていた。もちろんその距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだが、なんとなく気おくれがしてそれができなかった。僕は直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。何を言っているのか聞きとれないということもあった。しかし、僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女にはどちらでもいいみたいだった。直子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向いて歩きつづけた。まあいいや、散歩には良い日和だものな、と僕は思ってあきらめた。

  しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。ちょっとした道のりだ。駒込に着いたときには日はもう沈んでいた。穏かな春の夕碁だった。

  「ここはどこ?」と直子がふと気づいたように訊ねた。

  「駒込」と僕は言った。「知らなかったの? 我々はぐるっと伺ったんだよ」

  「どうしてこんなところに来たの?」

  「君が来たんだよ。僕はあとをついてきただけ」

  我々は駅の近くのそば屋に入って軽い食事をした。喉が乾いたので僕は一人でビールを飲んだ。注文してから食べ終るまで我々は一言もロをきかなかった。僕は歩き疲れていささかぐったりとしていたし、彼女はテーブルの上に両手を置いてまた何かを考えこんでいた。TVのニュースが今日の日曜日は行楽地はどこもいっぱいでしたと告げていた。そして我々は四ツ谷から駒込まで歩きました、と僕は思った。

  「ずいぶん体が丈夫なんだね」と僕はそばを食べ終ったあとで言った。

  「びっくりした?」

  「うん」

  「これでも中学校の頃には長距離の選手で十キロとか十五キロとか走ってたのよ。それに父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日曜日になると山登りしてたの。ほら、家の裏がもう山でしょ?だから自然に足腰が丈夫になっちゃったの」

  「そうは見えないけどね」と僕は言った。

  「そうなの。みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うのね。でも人は見かけによらないのよ」彼女はそう言ってから付けたすように少しだけ笑った。

  「申しわけないけれど僕の方はかなりくたくただよ」

  「ごめんなさいね、一日つきあわせちゃって」

  「でも君と話ができてよかったよ。だって二人で話をしたことなんて一度もなかったものな」と僕は言ったが、何を話したのか思いだそうとしてもさっぱり思いだせなかった。

  彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた。

  「ねえ、もしよかったら――もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだけど――私たちまた会えるかしら?もちろんこんなこと言える筋合じゃないことはよくわかっているんだけど」

  「筋合?」と僕はびっくりして言った。「筋合じゃないってどういうこと?」

  彼女は赤くなった。たぷん僕は少しびっくりしすぎたのだろう。

  「うまく説明できないのよ」と直子は弁解するように言った。彼女はトレーナー?シャツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたもとに戻した。電灯がうぶ毛をきれいな黄金色に染めた。「筋合なんて言うつもりはなかったの。もっと違った風に言うつもりだったの」

  直子はテーブルに肘をついて、しばらく壁にかかったカレンダーを見ていた。そこに何か適当な表現を見つけることができるんじゃないかと期待して見ているようにも見えた。でももちろんそんなものは見つからなかった。彼女はため息をついて目を閉じ、髪どめをいじった。

  「かまわないよ」と僕は言った。「君の言おうとしてることはなんとなくわかるから。僕にもどう言えばいいのかわからないけどさ」

  「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しょうとすると、もっと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」

  直子は顔を上げて僕の目を見つめた。

  「そういうのってわかる?」

  「多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。「みんな自分を表現しょうとして、でも正確に表現できなくてそれでイライラするんだ」

  僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。

  「それとはまた違うの」と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。

  「会うのは全然かまわないよ」と僕は言った。「どうせ日曜日ならいつも暇でごろごろしているし、歩くのは健康にいいしね」

  我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗りかえた。彼女は国分寺に小さなアパートを借りて暮していたのだ。

  「ねえ、私のしゃべり方って昔と少し変った?」と別れ際に直子が訊いた。

  「少し変ったような気がするね」と僕は言った。「でも何がどう変ったのかはよくわからないな。正直言って、あの頃はよく顔をあわせていたわりにあまり話をしたという記憶がないから」

  「そうね」と彼女もそれを認めた。「今度の土曜日に電話かけていいかしら?」

  「いいよ、もちろん。待っているよ」と僕は言った。

  はじめて直子に会ったのは高校二年生の春だった。彼女もやはり二年生で、ミッション系の品の良い女子校に通つていた。あまり熱心に勉強をすると「品がない」とうしろ指をさされるくらい品の良い学校だった。僕にはキズキという仲の良い友人がいて(仲が良いというよりは僕の文字どおり唯一の友人だった)、直子は彼の恋人だった。キズキと彼女とは殆んど生まれ落ちた時からの幼ななじみで、家も二百メートルとは離れていなかつた。

  多くの幼ななじみのカップルがそうであるように、彼らの閥係は非常にオーブンだったし、二人きりでいたいというような願望はそれほどは強くはないようだった。二人はしょっちゅうお互いの家を訪問しては夕食を相手の家族と一緒に食べたり、麻雀をやったりしていた。僕とダブル?デートしたことも何回かある。直子がクラス?メートの女の子をつれてきて、四人で動物園に行ったり、プールに泳ぎに行ったり、映画を観に行りたりした。でも正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、僕には少々上品すぎた。僕としては多少がさつではあるけれど気楽に話ができる公立高校のクラス?メートの女の子たちの方が性にあっていた。直子のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい頭の中でいったい何を考えているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼女たちにも僕のことは理解できなかったんじゃないかと思う。

  そんなわけでキズキは僕をダブル?デートに誘うことをあきらめ、我々三人だけでどこかに出かけたり話をしたりするようになった。キズキと直子と僕の三人だった。考えてみれば変な話だが、結果的にはそれがいちばん気楽だったし、うまくいった。四人めが入ると雰囲気がいくぶんぎくしゃくした。三人でいると、それはまるで僕がゲストであり、キズキが有能なホストであり、直子がアシスタントであるTVのトーク番組みたいだった。いつもキズキが一座の中心にいたし、彼はそういうのが上手かった。キズキにはたしかに冷笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われることも多かったが、本質的には親切で公平な男だった。三人でいると彼は直子に対しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、冗談を言い、誰かがつまらない思いをしないようにと気を配っていた。どちらかが長く黙っているとそちらにしゃべりかけて相手の話を上手くひきだした。そういうのを見ていると大変だろうなと思ったものだが、実際はたぶんそれほどたいしたことではなかったのだろう。彼には場の空気をその瞬間瞬間で見きわめてそれにうまく対応していける能力があった。またそれに加えて、たいして面白くもない相手の語から面白い部分をいくつもみつけていくことができるというちょっと得がたい才能を持っていた。だから彼と話をしていると、僕は自分がとても面白い人間でとても面白い人生を送っているような気になったものだった。

  もっとも彼は決して社交的な人間ではなかった。彼は学校では僕以外の誰とも仲良くはならなかった。あれほど頭が切れて座談の才のある男がどうしてその能力をもっと広い世界に向けず我我三人だけの小世界に集中させることで満足していたのか僕には理解できなかった。そしてどうして彼が僕を選んで友だちにしたのか、その理由もわからなかった。僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きなどちらかというと平凡な目立たない人間で、キズキがわざわざ注目して話しかけてくるような他人に抜きんでた何かを持っているわけではなかったからだ。それでも我々はすぐに気があって仲良くなった。彼の父親は歯科医で、腕の良さと料金の高さで知られていた。

  「今度の日曜日、ダブルデートしないか?俺の彼女が女子校なんだけど、可愛い女の子つれてくるからさ」と知りあってすぐにキズキが言った。いいよ、と僕は言った。そのようにして僕と直子は出会ったのだ。

  僕とキズキと直子はそんな風に何度も一緒に時を過したものだが、それでもキズキが一度席を外して二人きりになってしまうと、僕と直子はうまく話をすることができなかった。二人ともいったい何について話せばいいのかわからなかったのだ。実際、僕と直子のあいだには共通する話題なんて何ひとつとしてなかった。だから仕方なく我々は殆んど何もしゃべらずに水を飲んだりテーブルの上のものをいじりまわしたりしていた。そしてキズキが戻ってくるのを待った。キズキが戻ってくると、また話が始まった。直子もあまりしゃべる方ではなかったし、僕もどちらかといえば自分が話すよりは相手の話を聞くのが好きというタイプだったから、彼女と二人きりになると僕としてはいささか居心地が悪かった。相性がわるいとかそういうのではなく、ただ単に話すことがないのだ。

  キズキの葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔をあわせた。ちょっとした用事があって喫茶店で待ちあわせたのだが、用件が済んでしまうとあとはもう何も話すことはなかった。僕はいくつか話題をみつけて彼女に話しかけてみたが、話はいつも途中で途切れてしまった。それに加えて彼女のしゃべり方にはどことなく角があった。直子は僕に対してなんとなく腹を立てているように見えたが、その理由は僕にはよくわからなかった。そして僕と直子は別れ、一年後に中央線の電車でばったりと出会うまで一度も顔を合わせなかった。

  あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、キズキと最後に会って話をしたのが彼女ではなく僕だったからかもしれない。こういう言い方は良くないとは思うけれど、彼女の気持はわかるような気がする。僕としてもできることならかわってあげたかったと思う。しかし結局のところそれはもう起ってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方ない種類のことなのだ。

  第二章

  很久很久以前——其实也不过大约20年前,我住在一座学生寄宿院里。我18岁,刚上大学。对东京还一无所知,独自生活也是初次。父母放心不下,在这里给我找了间宿舍。这里一来管饭,二来生活设施也一应俱全。于是父母觉得即使一个未通世故的18岁少年,也可在此生活下去。当然也有费用方面的考虑。同一般单身生活开支相比,学生宿舍要便宜得多。因为,只要有了被褥和台灯,便无须添置什么。就我本人来说,本打算租间公寓,一个人落得逍遥自在。但想到私立大学的入学费以及每月的生活费,也就不好意思开口了。况且,住处对我原本也是无可无不可的。

  寄宿院建在东京都内风景不错的高地上,占地很大,四周围有高高的混凝土墙。进得大门,迎面矗立一棵巨大的桦树。树龄听说至少有150年。站在树下抬头仰望,只见天空被绿叶遮掩得密密实实。

  一条水泥甬道绕着这棵树迂回转过,然后再次成直线穿过中庭。中庭两侧平行坐落着两栋三层高的钢筋混凝土楼房。这是开有玻璃窗口的大型建筑,给人以似乎是由公寓改造成的监狱或由监狱改造成的公寓的印象。但绝无不洁之感,也不觉得阴暗。大敞四开的窗口传出收音机的声音。每个窗口的窗帘一律是奶黄色,属于最耐晒的颜色。

  沿甬道径直前行,正面便是双层主楼。一楼是食堂和大浴池,二楼是礼堂和几个会议室。另外不知何用,居然还有贵宾室。主楼旁边便是三栋宿舍楼,同是三层。院子很大,绿色草坪的正中有个喷水龙头,旋转不止,反射着阳光。主楼后面是棒球和足球两用的运动场和六个网球场,应有尽有。

  寄宿院唯一的问题,在于它根本上的莫名其妙。它是由以某一个极右人物为中心的一家性质不明的财团法人所经营的。其经营方针——当然是以我的眼光看—— 是相当奇特的。这点只消看一下那本寄宿指南的小册子和寄宿生守则,便可知道十之八九。“就教育之根本,在于培育于国有用之材。”此乃寄宿楼的创办精神,赞同这一精神的诸多财界人士慨然解囊……这是对外的招牌,而其内幕,便以惯用伎俩含糊其词。明确地来说,没有任何人晓得实情,称其无非是逃税对策者有之,谓其沽名钓誉者有之,说其以建寄宿舍之名而采取形同欺骗的巧妙手腕骗去这片一等地产者有之。甚至有人说其中包藏着非同小可的老谋深算。照这种说法,创办者的目的在于通过这里做过寄宿生的人在财政界建立一个地下财阀。确实,寄宿院内,有个清一色由寄宿生中的优秀分子组成的特权俱乐部,详情我自然不清楚。据说一个月总要召开几次邀请创办者参加的什么研究会。只要加入这俱乐部,将来就职便万无一失。至于这些说法中何对何错,我便无从判断了。但所有这些说法有一点却是共通的,即“反正莫名其妙”。

  不管怎样,1968年春到1970春这两年时间里,我是在这莫名其妙的寄宿院内度过的。如果有人问起何以在如此莫名其妙的地方竟然待了两年之久,我也无法回答。就日常生活这点来说,右翼也罢、左翼也罢、伪善也罢、罪恶也罢、并无多大区别。

  寄宿院内的一天是从庄严的升旗仪式开始的,当然也播放国歌。如同体育新闻中离不开进行曲一样,升国旗也少不得放国歌。升旗台在院子正中,从任何一栋寄宿楼的窗口都可看见。

  升国旗是东楼(我所住的)楼长的任务。这是个大约60岁的老年男子,高个头,目光敏锐,略微掺白的头发显得十分坚挺,晒黑的脖颈上有条长长的伤疤。据说此人出身于陆军中野学校,这也是真假莫辨。他身旁侍立一个学生,一副升旗助手的架势。这学生的事别人也不甚知晓。光脑袋,经常一身学生服,既不知其姓甚名谁,也不知其房间号码。在食堂或浴池里也从未打过照面。甚至弄不清楚他是否真是学生。不过,既然身着学生服,恐怕还得是学生才对——只能如此判断。而且此君同中野学校的那位却是截然相反:五短身材,面皮白嫩,不瘦偏肥。就是这一对令人不快至极的搭档在院子里升那太阳旗。

  住进之初,出于好奇,每天我特意在6点钟就爬起身来观看这爱国仪式。清晨6时,两人几乎与收音机的报时笛同步在院子中亮相。学生服固然是学生服加黑皮鞋,中野学校则一身夹克,脚踏运动鞋。学生服手提扁扁的桐木箱,中野学校提一台索尼牌便携式磁带收录机。中野学校把收录机放在升旗台下,学生服打开桐木箱。箱里整齐地叠放着国旗。学生服毕恭毕敬地把那旗拿给中野学校。中野学校随即给旗穿上绳索,学生服顺便按一下收录机开关。

  《君之代》

  旗一蹿一蹿地向上爬去。

  “沙砾成岩兮”——唱到这里时,旗升到旗杆中间,“遍覆青苔”音刚落,国旗便爬到了顶尖。两人随即挺胸凸肚,取立正姿势,目光直视国旗。假若晴空万里,又赶上阵风吹来,那光景便甚是了得。

  傍晚降旗,其仪式也大同小异,只是顺序与早上相反,旗一溜烟滑下,收进桐木箱中即可。晚间国旗却是不随风翻卷的。

  何以晚间非降旗不可,其缘由我无从得知。其实,纵然夜里,国家也照样存在,做工的人也照样不少。巡路工、出租车司机、酒吧女侍、值夜班的消防队、大楼警卫等——这些晚间工作的人们居然享受不到国家的庇护,我觉得委实有欠公道。不过,这也许并不足为怪,谁也不至于对此耿耿于坏。介意的大概舍我并无他人。况且,就我而言,也是姑妄想之而已,从来就没想寻根问底。

  房间的分配,原则上是一、二年级两人一房,三、四年级每人一间。两人一个的房间,有六张垫席大小,略显狭长,尽头墙上开有铝合金框窗口。窗前,背对背放着用来学习的两套桌椅,门内左侧放一架双层铁床。每件家具,其结构简单得出奇,且结实得可以。除了桌椅铁床,还有两个衣箱、一张小咖啡桌,以及直接安在墙壁上的搁物架。无论怎么爱屋及乌,都难以恭维是富有诗意的空间。差不多所有房间的搁物价上,都摆一些日用品。有收录机、吹风机、电暖瓶、电热器和用来处理速溶咖啡、袋装茶、方糖、速食面的锅和简单的餐具。石灰墙上贴着《平凡周刊》上的美人照,以及从报刊上剪下的色情电影广告画。其中也有开玩笑贴的猪交尾照片,但这是例外中的例外。一般房间贴的都是裸体照,或年轻歌手照和女演员照。桌上的小书架里排列着教科书、辞典、小说之类的。

  房间里因都是男人,大多脏得一塌糊涂。垃圾篓底沾着已经发霉生毛的桔子皮,代替烟灰缸用的空罐里烟头积了10多厘米,里面一冒烟,使用咖啡啤酒什么的随手倒进浇灭,发出令人窒息的酸味儿。碟碗则没有一个不黑糊糊的,里外沾满无名脏物。地板上散乱仍着速食面包袋、空啤酒瓶什么以及什么器皿的封盖之类。没有一个人想起过用扫帚把它们扫在一起或用垃圾铲铲倒垃圾篓里。风一吹来,灰尘便在地板上翩翩起舞,而且,每个房间都充斥一股难闻的气味。虽然气味多少有所不同,但其成分都是毫无二致:汗、体臭,加上垃圾。大家全都把要洗的东西塞到床下。没有一个人定期晾晒被褥,于是那被褥算是彻底吸足了汗水,释放出不可救药的气味。我现在还感到不可思议:在那般混浊状态中居然没有发生致命的传染病。

  不过相比之下,我的房间却干净的如同太平间,地板上纤尘不然,窗玻璃光可鉴人,卧具每周晾晒一次,前臂在笔筒内各得其所,就连窗帘每月都少不得洗涤一回,这都因为我的同室者近乎病态地爱洁成癖。我告诉别人说:“那家伙练窗帘都洗!”但谁都摇头不信。谁也不知窗帘乃常洗之物。他们认定:窗帘是半永久性垂在窗口的附件,并且说“那小子性格异常”,随后又都称其为“纳粹党”或“敢死队”。

  我的房间连美人画都没贴,而代之以阿姆斯特丹运河的摄影。我贴裸体画的时候,他开口道:“我说渡边君,我,我可不大欣赏那玩艺儿哟!”然后伸手取下,以运河画取而代之。我也并非很想贴那裸体,便没表示异议。来我房间玩的人看了这运河摄影画,都问是何物,我说:“敢死队看着它手淫来着。”我本来是开玩笑说的,大伙却轻率地信以为真。由于大家信得太轻率了,连我自己不久也以为可能真有其事。

  由于我同敢死队住在一起,大家都对我表示同情,但我本人却无甚反感。只要我洁身自好,他便概不干涉。作为我,反倒有些求之不得:地板他扫,被褥他晒,垃圾他倒。要是我忙得三天没进浴池,他便嗅了嗅,劝我最好洗澡去,甚至还提醒我该去理发店剪一剪鼻毛。麻烦的是只消发现一条小虫,他就拿起杀虫剂喷雾器满屋喷洒不止。这时我只好到隔壁的混乱地带避难。

  敢死队在一间国立大学攻读地理学。

  “我嘛,是学地、地、地图的。”刚见面是他对我这样说。

  “喜欢地图?”我问。

  “嗯。大学毕业,去国土地理院、绘地、地、地图。”

  于是,我不禁再次感叹:世上果然有多种多样的希望,人生目标也各所不同。我来东京后一开始便发出诸多感叹,此其一。不错,假若没有几个人对绘制地图怀有兴趣和强烈热情——人多了怕也大可不必——那是有些不好办。不过,想进国土地理院的却是每说到“地图”两字便马上口吃之人,也真是有些奇妙。他也不总是口吃,但一说到“地图”一词,便非口吃不可,百分之百。

  “你、你学什么?”他问。

  “戏剧。”我答说。

  “戏剧?就是演戏?”

  “步步,那不是的。是学习和研究戏曲。例如拉辛啦易卜生啦莎士比亚啦。”

  他说,除了莎士比亚外都没听说过。其实我也半斤八两,只记得课程介绍上这样写的。

  “不管怎么说,你是喜欢的喽?”

  “也不是特别喜欢。”我说。

  我这回答使他困惑起来。一困惑,口吃便更厉害了。我觉得自己好像做了件十分对不起人的事。

  “学什么都无所谓,对我来说。”我解释道,“民族学也罢,东洋史也罢,什么都行。连看中这戏剧,也纯属偶然,如此而已。”这番解释,自然还是没能使他理解。

  “我不明白,”他真的一副不明白的脸色,“我、我嘛,因为喜欢地、地、地图,才学地、地、地图的。为了这个,我才让家里寄、寄钱,特意来东京上大学。你却不是这样……”

  他讲的自然是正论,我不便再解释了。随后我们用火柴杆抽签,决定上下床。结果他住上床,我在下床。

  他身上的打扮,总是白衬衫黑裤子和蓝毛衣。光头,高个儿,颧骨棱角分明。去学校时,时常一身学生服。皮鞋和书包也是一色黑,看上去俨然一个右翼学生。也正因如此,周围人才叫他是“敢死队”。但说实话,他对政治百分之百的麻木不仁。不过是嫌选购西装麻烦罢了。他所留心的仅限于海岸线的变化和新铁路隧道的竣工之类。每当接触这方面的话题,他便结结巴巴地一讲一两个小时,直到我抽身溜走或睡着才住嘴。

  清晨6点,他随着足可代替闹《君之代》歌声起床。看来那故弄玄虚的升国旗仪式也并非毫无效用。旋即穿衣,去洗脸间洗漱,洗脸时间惊人地长,我真怀疑他是不是把满口牙一颗颗拔下来刷洗一遍。返回房间后,便“噼噼啪啪”地抖动毛巾,小心翼翼地按平皱纹后,放在暖气片上烘干,并把牙膏和香皂放回搁物架。随后,拧开收音机做广播体操。

  我晚间看书看得很晚,一觉睡到早上8点多钟。所以即便他起来弄得簌簌作响。甚至打开收音机作广播体操,一般我都只管大睡其觉。可是,惟独到了广播体操那跳跃动作部分,却是非醒不可。不容你不醒。因为他跳跃之时——也确实跳得相当之高——便把床板震的上下颤抖。头三天,我都忍了。听人说集体生活是需要某种程度的忍耐的。但到第四天早上,我认识到可不能再忍下去了。

  “对不起,广播体操在楼顶什么地方做好么?”我开门见山,“你那么一做我就不用睡了。”

  “可都6点半了呀!”他一副难以置信的样子。

  “那我知道,不久6点半了吗?6点半对我是睡眠时间。原因不好解释,反正就这习惯。”

  “那怎么成!在楼顶做,三楼就有意见了。这是因为下面房间是贮藏室,谁都不会说三道四。”

  “那就在院子里做,在草坪上!”

  “也不行。我、我那收音机不是晶体管的。没、没电源不能用,没音乐我又做不了操。”

  的确,他的收音机相当原始,是交流电源式的。而我那个倒是晶体管,可又是音乐专用,只能收立体声短波。罢了罢了,我想。

  “让你一步,”我说,“做体操可以,只是把跳跃动作去掉。那部分太吵了。这回总可以了吧?”

  “跳、跳跃?”他满脸惊异,反问道,“跳跃是什么,跳跃?”

  “跳跃就是跳跃。就是上上下下一蹦一跳的!”

  “没那回事啊!”

  我开始头痛,没心思再和他罗嗦下去。但转而一想,既然话已出口就该说清楚才是。于是,我一边哼着广播协会那段“广播体操第一”的曲子,一边在地上实际蹦跳一番。

  “看见没有,就这个,怎么能没有呢?”

  “啊,倒也是,倒是又的,没、没注意。”

  “所以我说,”我一屁股坐在床沿上,“希望你把这部分免掉,其他的我全部忍胜吞气了。只要你不跳,就能让我睡个安稳觉,行吗?”

  “不行不行。”他说得倒也干脆,“怎么好漏掉一节呢。我是十年如一日做过来的。一旦开了头,就、就下意识地一做到底。要是去掉一节,就、就、就全部做不出来了。”

  我再也说不出什么,能说出什么呢?最有效的莫过于把他那个活气死人的收音机称他不在从窗口一甩了事。可是不用说,那一来肯定像打开地狱之门似的捅出一场骚乱。因为敢死队这小子拿自己的东西极其注意。我哑口无言,在床边茫然坐着。这当儿,他笑嘻嘻地安慰道:

  “渡、渡边君,你也一块儿起来不久得了。”言毕,到食堂吃早餐去了。

  讲罢敢死队和他做广播体操的趣闻,直子“扑哧”笑出声来。其实我并不是当笑柄讲的,但结果我也笑了。看见她的笑脸——尽管稍纵即逝——实在相隔很久了。

  我和直子在四谷站下了电车,沿铁路边上的土堰往市谷方向走去。这是5月中旬一个周日的午后。早上“劈里啪啦”时停时下的雨,上午就已完全止息了。低垂的阴沉沉的雨云,也似乎被南来风一扫而光似的无影无踪,鲜绿鲜绿的樱树叶随风摇曳,在阳光下闪闪烁烁。太阳光线已透出初夏的气息。擦肩而过的人都脱去贸易和外套,有的搭在肩头,有的挽在臂上。在周日午后温暖阳光的爱抚下,每个人看上去都显得分外开心。土堰对面的网球场上,小伙子脱去衬衫,穿一条短裤挥舞球拍。只有并坐在长凳上的两个修女,依旧循规蹈矩地身着黑色冬令制服。仿佛惟独她们四周没有阳光降临,但两人还是一副心满意足的神态,享受着晒太阳聊天的乐趣。

  走了15分钟,背上渗出汗来。我于是脱去棉布衬衣,只穿圆领半袖衫。她把浅灰色的运动衫的袖口挽到臂肘上。看上去洗过好多遍了,颜色褪得恰到好处。很久以前我也似乎见她穿过同样的衬衫,但记不确切,只是觉得而已。关于直子的事,当时记得确实不很多。

  “集体生活怎么样?和别人朝夕相处,可有意思?”

  “弄不太清,才一个月过一点嘛。”我说,“不过,倒也不坏,至少还没有叫人吃不消的事。”

  她在饮水台前停住,喝了一小口水,从裤带里掏出白手帕擦了擦,然后弯下腰,细心地重新系好皮鞋带。

  “你说,我也能过那种生活?”

  “集体生活?”

  “嗯。”直子说。

  “怎么说呢,这东西主要看个人想法。伤脑筋的事说有也是有不少的。一些规定罗罗嗦嗦,无聊的家伙耀武扬威,加上同室人6点半就坐广播体操。可是,如果想一想这类事到哪里都在所难免,也就心平气和了。只要你心想只能在此度日,就能凑合下去。就这么回事。”

  “呃——”她点点头,似乎想起了什么,停了一会儿。之后就像审视什么世间珍品似的凝眸注释我的眼睛。仔细看去,发现她的眼睛是那样深邃和清澈,令人怦然心动,这以前我竟没有发现她有如此晶莹澄澈的眸子。想来,我还真没仔细看她眼睛的机会,两人单独走路是第一次,说这么多话也是第一次。

  “打算搬进寄宿宿舍?”我试着问。

  “不不,不是那样的。”直子说,“只是想想,想集体生活是什么样子,我是说……”直子咬起嘴唇,搜寻合适的字眼,但终究没有找出来。她叹了口气,低下头,“我想不明白,算了。”

  交谈到此为止了。直子开始再次向东走,我留点距离随在后面。

  我差不多一年没有见到直子了。这一年里,直子瘦成了另一个人。原先别具风韵的丰满脸颊几乎平平的了。脖颈也一下细弱好多。但她这种瘦削,看上去非常自然而娴雅。简直就像在某个狭长的场所待过后,体形自行纤细起来一样。而且,直子要比我以前印象中的漂亮。我很像就这点向直子讲点什么,但不如怎样表达,结果什么也未出口。

  我们也不是有什么目的才来这里的。在中央线电车里,我和直子偶然相遇。她准备一个人去看电影,我正要去神田逛书店。双方都没什么要紧事。直子说声下车吧,我们就下了车,那站就是四谷站。当然,只剩下两人后,我们也没有任何想要畅谈的话题。至于直子为什么说下车,我全然不明白。话题一开始就无从谈起。

  出得站,她也没说去哪里就快步走起来。无奈,我便追赶似的尾随其后。直子和我之间,大致保持1米左右的距离,,若想缩短,自然可以缩短,但我总觉得有点难为情。因此我一直跟在离直子1米远的身后,边走边打量着她的背影和乌黑的头发。她戴一个大大的茶色发卡,侧脸时,可以看见白皙而小巧的耳朵。直子不时地回头搭话。我有时应对自如,有时就不知如何回答,也有时听不清她说了什么。但对直子,我听见也好没听见也好似乎都无所谓。她说完自己想说的,便继续向前走。也罢也罢,反正天气不错,散散步也好。我决定由她去了。

  可是,就散步来说,直子那步伐又有点过于郑重其事。到了饭田桥,她向右一拐,来到御堀端,之后穿过神保町十字路口,,登上御茶水坡路,随即进入本乡。又沿着都营电车线路往驹也走去。路程真长的可以。到得驹也,太阳已经落了,一个柔和温馨的春日黄昏。

  “这是哪儿?”直子突然察觉似的问道。

  “驹也。”我说,“不知道?我们兜了个大圈子。”

  “怎么到这儿来了?”

  “你来的嘛,我只是跟着。”

  我们走进车站附近的荞面馆,简单吃点东西,我口渴,一个人要来啤酒。等待东西端来的时间里,我们都一句话没说。我走得累了,有点打不起精神,她两手放在桌面上沉思什么。电视的新闻节目里,报道说今天这个周日任何一处游乐场所都人头攒动。我们可是从四谷步行到驹也,我想。

  “身体真不错啊。”我吃完荞面说。

  “没想到?”

  “嗯。”

  “别看我这样,初中时还是长跑选手,跑过十几公里呢。而且,由于父亲喜爱登山,我从小每到星期天就往山上爬。记得不,我家后面就是山吧?所以,腿脚就自然而然变得结实了。”

  “真看不出来。”我说。

  “倒也是。别人也都说我长得太娇嫩了。不过,人可是不能貌相哟!”说罢,补充似的微微一笑。

  “这么说你别见怪,我可是累得够呛。”

  “对不起,让你陪了一整天。”

  “不过,能和你说话,挺高兴的。以前好像两人一次都没单独说过话。”说罢,我便回想说过什么没有,但根本想不出来。

  她下意识地反复摆弄着桌面上的烟灰缸。

  “嗳,要是可以的话——我是说要是不影响你的话——我们在见面好么?当然,我知道按理我不敢说这样的话。”

  “按理?”我吃了一惊,“按理是怎么回事?”

  她脸红了。大概我太吃惊的缘故。

  “很难说明白。”直子辩解似的说。她把运动衫两个袖口拉到臂肘上边,旋即又褪回原来位置。电灯光把她细细的汗毛染成美丽的金黄色。“我没想说按里,本来想用别的说法来着。”

  直子把臂肘拄在桌面,久久看着墙上的挂历,似乎想要从中找出合适的字眼,那当然是不可能的。她叹口气,闭上眼睛,摸了下发卡。

  “没关系。”我说,“你要说的好象能明白。我也不知道怎么说才合适。”

  “表达不好。”直子说,“这些日子总是这样。一想表达什么,想出的只是对不上号的字眼。有是对不上号,还有时完全相反。可要改嘴的时候,头脑又混乱得找不出词来,甚至自己最初想说什么都糊涂了。好像身体被分成两个,相互做追逐游戏似的。而且中间有根很粗很粗的大柱子,围着它左一圈右一圈追个没完。而恰如其分的字眼总是由另一个我所拥有,这个我绝对追赶不上。”直子仰脸盯着我的眼睛,“这个你明白?”

  “或多或少,谁都会有那种感觉。”我说,“谁都想表现自己,而又不能表现得确切,以至焦躁不安。”

  我这么一说,直子显得有些失望。

  “可我和这个也不同的。”直子说,但再没解释什么。

  “见面是一点也不碍事,”我说,“反正星期天我都显得百无聊赖,再说走走对身体也好。”

  我们乘上手山线,直子在新宿转乘中央线。她在国分寺租了间小公寓。

  “哦,我说话方式同以前不一样了?”临分手时直子问我。

  “好像稍微有点不同。”我说,“不过哪点不同,我又说不清楚。老实说,记得那时候见面倒是不少,却没怎么说过话。”

  “是啊。”她也承认,“这个星期六可以打电话给你?”

  “可以,当然可以。我等着。”我说。

  第一次同直子见面,是高中二年级的春天。她也是二年级,就读于教会背景的正统女笑。正通倒是正统,但如果对学习太热心了,便会被人指脊梁骨说成“不本分”。我有一个叫木月的要好朋友(与其说要好,不如说是我绝无仅有的唯一朋友),直子是他的恋人。木月和她几乎是从一降生就开始的青梅竹马之交,两家相距不到两百米。

  正像其他青梅竹马之交一样,他们的关系非常开放,单独相处的愿望似乎也不那么强烈。两人时常相互去对方家里,同对方家人一起吃晚饭、打麻将。还有好几次拉我赴四人约会。直子领过一个同班女生,四人一同去动物园,去游泳池,去看电影。但坦率地说,直子领来的女生尽管可爱,但对我太高雅了。作为我,合得来的还是公立高中那些虽然多少有些粗俗之感却可以无拘无束地交谈的女孩子。直子领来的女孩子那招人喜爱的头脑中到底在想什么,我实在莫名其妙。估计她们对我也同样莫名其妙。

  由于这个原因,木月便放弃了四人约会,而只我们三人——木月、直子加我,或外出游玩或谈天说地。想起来是有些不正常,但就效果而言,这样倒最是其乐融融,相安无事。而四人相聚,气氛总有些不太融洽。三人在一起,便俨然成了电视中的专题采访节目:我是客串演员,木月是精明强干的主持人,直子则是助手。木月总是节目的中心,而他又干的的确得心应手。木月有一种喜欢冷笑的倾向,往往被人视为傲慢,但本质上却是热情公道的人。三人相聚时,对我对直子他都一视同仁,一样地搭话,一样地开玩笑,,注意不让任何人受到冷落。倘若有一方长久默然不语,他就主动找话,巧妙地把对方拉入谈话圈内。每见他这样,就觉得他煞费苦心,而实际上恐也不致如此。他有那么一种能力,可以准确无误地捕捉住气氛的变化,,从而浑洒自如地因势利导。另外他还有一种颇为可贵的才能,可以从对方并不甚有趣的谈话中抓出有趣的部分来。因此,每次与他交谈,我就觉得自己俨然是个妙趣横生的人,在欢度妙趣横生的人生。

  然而他决非社交式人物。在学校里,除我以外它同谁也合不来。我总不明白,此等头脑机敏、谈吐潇洒之人为何不向更为广阔的世界施展才华,而对只有三个人的小天地感到满足。至于我纯属凡夫俗子,并无引人注意之处,只喜欢独自看书独自听音乐。更不具有值得木月刮目相视并主动攀谈的某种出人头地的才能。可是我们却一拍即合地要好起来。他父亲是牙科医生,以技术高明和收入丰厚知名。

  “这个星期天来个四人约会如何?我那个她在女校,会领些可爱的女孩儿来的。”相处后不久木月便这样提议。

  “好哇。”我说。就这样我遇到了直子。

  我和木月、直子三人不知如此欢聚了多少次但当木月暂时离开只剩下两个人时,我和直子还是谈不上三言两语。双方都不晓得从何谈起。实际上我同直子之间也没任何共同语言。所以,我们只好一声不吭地喝水,或者摆弄桌面上的东西,等待木月的转来。他一折回,谈话便随之开始。直子不怎么喜欢开口,我么,更乐意听别人说。这样,和直子单独留下来,便每每觉得坐立不安。并非不对胃口,只是无话可说。

  木月的葬礼过后大约两周,我和直子见了次面。因有点小事,我们在一家饮食店碰头。事完之后,便没什么可谈的了。我搜刮了几个话题向她搭话,但总是半途而废。而且她话里似乎带点棱角。看上去直子好像对我有所不满,原因我揣摸不出。从那次同直子分手,到这次在中央线电车中不期而遇,其间一年没有见面。

  直子对我心怀不满,想必是因为同木月见最后一次面说最后一次话的,是我而不是她。我知道这样说有些不好,但她的心情似乎可理解。可能的话,我真想由我去承受那次遭遇。但毕竟事情已经过去,再怎么想也于事无补。

  那是5月一个令人愉快的下午。吃完午饭,木月问我能不能不上课,和他一起去打桌球。我对下午的课也不是很有兴致,便出了校门,晃晃悠悠地走下坡路,往港口那边逛去。走进桌球室,玩了四局。第一局我轻而易举地赢了,他于是顿时认真起来,一举赢了其余三局。我按事先讲好的付了费用。玩球时间里,他一句玩笑也没说——这是十分少有的。玩完后,我们吸了支烟,休息一会。

  “今天怎么格外的认真?”我问。

  “今天我可是不想输。”木月满意地笑着说。

  那天夜里,他在自家车库中死了。他把橡胶软管接在N360车排气管上,用塑料布封好窗缝,然后发动引擎。不知他到底花了多长时间才死去。当他父母探罢亲戚的病,回来打开车库门放车的时候,他已经死了。车上的收音机仍然开着,脚踏板夹着加油站的收据。

  既无遗书,也没有推想得出的动机。警察以我是同他最后见面说话的人为由,把我叫去了解了情况。我对负责问询的警察说:根本没有那种前兆,与平时完全一样。警察对我对木月似乎都没什么好印象。仿佛认为:上高中还逃学去打桌球的人,即使自杀也没什么不可思议。报纸发了一小条报道,时间就算了结了。那台 N360车被处理掉。教室里他用过的课桌上,一段时间里放了束百花。

  木月死后到高中毕业前的十个月时间里,我无法确定自己在周围世界中的位置。我结交了一个女孩子,同他睡过觉,但持续不过半年。她也从未找我算帐。我选择了东京一所似乎不怎么用功也可考取的私立大学。考罢入了学。考中也没使我如何欣喜。那女孩儿劝我别去东京,但我死活都要离开神户,想在无一熟人的地方开始新的生活。

  “你和我睡过了,所以就不拿我当回事,是不是?”她哭了。

  “那不是的。”我说。我只不过想离开这个城市。但她想不通。随后我们就分道扬镳了。在去东京的新干线电车中,我回想起她的长处和优点,后悔自己干了一件十分亏心的事。可是已经追悔莫及了。我决定把她忘掉。

  到得东京,住进寄宿宿舍开始新生活时,我要做的仅有一件事,那就是对任何事物都不想的过于深刻,对任何事物都保持一定距离。什么敷有绿绒垫的桌球台呀,,红色的N360车呀,课桌上的白花呀,我决定一股脑儿把它们丢到脑后。还有火葬场高大烟囱中腾起的烟,警察署问询室中呆头呆脑的镇纸,也统统一扫而光。起始几天,进行的似乎还算顺利。但不管我怎么努力忘却,仍有恍如一团薄雾状的东西残留不走。并且随着时间的推移,雾团状东西开始以清楚而简练的轮廓呈现出来。那轮廓我可以诉诸语言,就是:

  死并非生的对立面,而作为生的一部分永存。

  诉诸语言之后确很平凡,但当时的我并不是将其作为语言,而是作为一团薄雾样的东西来用整个身心感受的。无论镇纸中,还是桌球台上排列的红白四个球体里,都存在着死。并且我们每个人都在活着的同时像吸入细小灰尘似的将其吸入肺中。

  在此以前,我是将死作为完全游离于生之外的独立存在来把握的。就是说:“死迟早会将我们俘获在手。但反言之,在死俘获我们之前,我们并未被死俘获。”在我看来,这种想法是天经地义、无懈可击的。生在此侧,死在彼侧。我在此侧,不在彼侧。

  然而,以木月死去那个晚间为界,我再也不能如此单纯地把握死(或生)了。死不是生的对立面。死本来就已经包含在“我”这一存在之中。我们无论怎样力图忘掉它都归于徒劳这点便是实证。因为在17岁那年5月一个夜晚俘获了木月的死,同时也俘获了我。

  我在切身感受那一团薄雾样的东西的朝朝暮暮里送走了18岁的春天,同时努力使自己避免陷入深刻。我隐约感觉到,深刻未必是接近真实的同义语。但无论我怎样认为,死都是深刻的事实。在这令人窒息般的悖反性当中,我重复着这种用永不休止的圆周式思考。如今想来,那真是奇特的日日夜夜。在活得好端端的青春时代,居然凡事都以死为轴心旋转不休。

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