日语名著 不在地主

来源: wanghongjie | 更新日期:2015-04-17 14:15:17 | 浏览(16)人次

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「ドンドン、ドン」


 泥壁には地図のように割目が入っていて、倚よりかかると、ボロボロこぼれ落ちた。――由三は半分泣きながら、ランプのホヤを磨きにかかった。ホヤの端を掌で抑えて、ハアーと息を吹き込んでやると、煙のように曇った。それから新聞紙を円めて、中を磨いた。何度もそれを繰返すと、石油臭い匂いが何時迄も手に残った。

 のめりかけている藁屋根の隙間からも、がたぴしゃに取付けてある窓からも、煙が燻り出ていた。出た煙はじゅくじゅくした雨もよいに、真直ぐ空にものぼれず、ゆっくり横ひろがりになびいて、野面をすれずれに広がって行った。

 由三は毎日のホヤ磨きが嫌で、嫌でたまらなかった。「えッ、糞婆、こッたらもの破わってしまえ!」――思い出したように、しゃっくり上げる。背で、泥壁がボロボロこぼれ落ちた。何処かで牛のなく幅の広い声がした。と、すぐ近くで、今度はそれに答えるように別の牛が啼いた。――霧のように細かい、冷たい雨が降っていた。

「由ッ! そったらどこで、何時えつ迄何してるだ!」――家の中で、母親が怒鳴っている。

「今えま、えぐよオ。」

 母親はベトベトした土間の竈かまどに蹲しゃがんで、顔をくッつけて、火を吹いていた。眼に煙が入る度に前掛でこすった。毎日の雨で、木がしめッぽくなっていた。――時々竈の火で、顔の半分だけがメラメラと光って、消えた。

「早ぐ、ランプばつけれ。」

 家の中は、それが竈の中ででもあるように、モヤモヤけぶっていた。眼のあき所がない。由三は手さぐりで、戸棚の上からランプの台を下した。

「母はば、油無えど。」

「?」――母親はひょいと立ち上った。「無え?……んだら、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、249-上-7]さ行って来い。」

「ぜんこ?」

「ぜんこなんて無え。借れて来い!」

 由三はランプの台を持ったまま、母親の後でウロウロしていた。

「行えげッたら行げ! この糞たれ。」

「ぜんこよオ!」――背を戸棚にこすりつけた。「もう貸さね――エわ。」

「貸したって、貸さねたって、ぜんこ無えんだ。」

「駄目、だめーえ、駄目!……」

「行げったら行げッ!」

 由三は殴られると思って、後ずさりすると、何時もの癖になっている頭に手をやった。周章あわてて裏口へ下駄を片方はき外したまま飛び出した。――「えッ、糞婆!」

 戸口に立ったまま、由三はしばらく内の気配をうかがっていたが、こっそり土間に這い込んで、片方の下駄を取出した。しめっぽい土の匂いが鼻へジカにプーンと来た。

 雨に濡れている両側の草が気持悪く脛に当る細道を抜けて、通りに出た。道の傍らには、節を荒けずりした新らしい木の香のする電柱が、間隔を置いて、何本も転がさっていた。――もうしばらくで、この村に電燈がつくことになっていた。毎日「停車場のある町」から電工夫が、道具をもって入り込んできた。一本一本電柱が村に近くなってきた。子供達はそれを何本、何本と毎日数え直して、もう何本で村に入るか、云い合った。皆は工夫達の仕事をしているところに、一日中立ってみていた。

「お前え達のうちに姉のいる奴いるか?」

 子供たちははにかみ笑いながら、お互に身体を押し合った。

「此奴こいつにいるんだよ。」――一人が云う。「な!」

「ん、ん。」

「んか、可愛めんこいか?――晩になったらな、遊ぶに行えぐってな、姉さ云って置げよ。ええか。」

 と、皆は一度にヤアーと笑い出してしまう。――子供達は、何時迄もそうやっているのが好きだった。日が暮れそうになって、ようやく口笛を吹きながら、棒切れで道端の草を薙ぎ倒し、薙ぎ倒し、村道を村に帰ってきた……。

 通りを三町程行くと、道をはさんで荒物屋、郵便局、床屋、農具店、種物屋、文具店などが二、三十軒並んでいる「市街地」に出る。――由三は坊主頭と両肩をジュクジュクに雨に濡らしたまま走った。

 軒下に子供が三、四人集って、「ドンドン」をやっていた。由三はランプの台を持ったまま側へ寄って行った。

┌「ドンドン、ドン!」

└「ドンドン、ドン!」

「中佐か?――勝ったど! 少将だも。」

 相手は舌で上唇を嘗めながら、「糞!」と云った。

┌「ドンドン――ドン!」

└「ドンドン、アッ一寸待ってけれ。」――何か思って、クルリと後向きになると、自分の札の順を直した。

┌「ドンドンドン!」

└「ドンドンドン!」

「中将!」

「元帥だ!――どうだ!」いきなり手と足を万歳させた。

「あ、お前、中将取られたのか?……」――側の者が負けたものの手元をのぞき込んだ。「あと何んと何に持ってる?」

「黙ってれでえ!……負けるもんか。」

「お、由、組さ入らねえか?」――勝った方が云った。

「入れでやるど、ええべよ。」

 由三はやりたかった。然し今迄一度だって「ドンドン」を買って貰ったことがなかった。――由三はだまっていた。

「無えのか?」

「由どこの姉、こんだ札幌さ行ぐってな。」

 一人が軒下から、雨の降っている道へ向けて、前を腹迄位まくって小便をしていた。

「誰云った?」

「誰でもよ。んで、白首ごけになるッてな!」

「んか、白首にか!」

「白首か! そうか!」――皆はやし立てた。

 由三はそれが何のことかハッキリ分らなかった。分らないが、いきなりヒネられでもした後のように、顔中がカッと逆上のぼせてきた。

「夕焼け小焼けに日が暮れて……」――女の子が三、四人声を張り上げて歌っているのが、遠くに聞えていた。

 由三は急にワッと泣き出した。

「泣くな、え、このメソ!」

 グイと押されて、ランプの台を落してしまった。少し残っていた石油が、雨に濡れた地面にチリチリと紫色の波紋をつくって広がった。――皆は気をのまれて、だまった。

「あーあ、俺でもないや、俺でもないや。」――少し後ずさりして云い出した。

「俺でもないや。」

「うえ、お前めえだど。――お前えでないか!」

「俺でもないや。」

「俺でもないや、あーあ。」

「母はばさ云ってやるから!」――由三は大声で泣きながら、通りを走り出した。

 途中で片々の下駄を脱いで、手に持った。走りながら、「母さ云ってやるから!」何度もそれを繰りかえした。

 母親はすぐ裏の野菜畑の端で、末の子を抱えて小便おしッこをさせていた。鶏が畠のウネを越えて、始終キョトキョトしながら餌をあさっている。

「ほら、とッと――なア。とッと、こ、こ、こ、こ、こッてな。――さ、しッこするんだど、可愛めんこいから……」そして「シー、シー、シー。」と云った。

 子供は足をふんばって、「あー、あー、あば、ば、ば、ば……あー、あー」と燥ゃいだ。

「よしよし。さ、しッこ、しッこ、な。」

 母親はバタバタする両足を抑えた。

 その時、身体をびッこに振りながら、片手に下駄を持って、畑道を走ってくる由三が見えた。それが家のかげに見えなくなった時、すぐ、土間で敷居につまずいて、思いッ切り投げ出されたらしく、棚から樽やバケツの落ちる凄い音がした。と、同時にワアッと由三の泣き出すのが聞えた。

「犬餓鬼! 又喧嘩してきたな。……さ、しッこもうええか?」

 小指程のちんぽの先きが、露のようにしめっていた。

「よしよし、可愛めんこい、可愛い。」

 由三は薄暗いベトベトする土間に仰向けになったまま、母親を見ると、急に大きな声を出し、身体をゴロゴロさせて泣き出した。


     S――村


 由三は空の茶碗を箸でたたき乍ら、「兄あんちゃ帰らないな……」と、唇をふくれさせていた。

 兄の健は、畠からすぐ市街地の「青年訓練所」に廻ったらしく、夕飯時に家に帰らなかった。――健は今年徴兵検査だった。若し、万一兵隊にとられたら、今のままでも食えないのに大変なことだった。「青年訓練所」に通えば、とにかく兵隊の期間が減る、そう聞いていた。それだけを頼みに、クタクタになった身体を休ませもせずに通っていた。

 母親は背中へジカに裸の子供を負って、身体をユスリユスリ外へ出てみた。――子供は背中でくびれた手足を動かした。その柔かい膚の感触さわりがくすぐったく、可愛かった。

「ええ子だ、ええ子だ。」母親は身体を振った。――一度、こんな風に負ぶっていて、子供をすっぽり、そのまま畑へすべり落してしまったことがあった……。

 野面のづらは青黒く暮れかかっていた――背が粟立つほど、底寒かった。


 健達の、このS村は、吹きッさらしの石狩平野に、二、三戸ずつ、二、三戸ずつと百戸ほど散らばっていた。それが「停車場のある町」から一筋に続いている村道に、縄の結びこぶのようにくッついていたり、ずウと畑の中に引ッ込んでいたりした。丁度それ等の中央に「市街地」があった。五十戸ほど村道をはさんで、両側にかたまっていた。

 平原を吹いてくる風は、市街地に躍りこむと、ガタガタと戸をならし、砂ほこりをまき上げて、又平原に通り抜けて行った。――田や畑で働いていると、ほこりが高く舞い上りながら、村道に沿って、真直ぐに何処までも吹き飛ばされて行くのが見えた。

 どっちを見ても、何んにもない。見る限り広茫としていた。冬はひどかった。電信柱の一列が何処迄も続いて行って、マッチの棒をならべたようになり、そしてそれが見えなくなっても、まだ平であり、眼の邪魔になるものがなかった。所々箒をならべ立てたような、ポプラの「防雪林」が身体をゆすっていたり、雑木林の叢が風呂敷の皺のように匐っていた。

 S村の外れから半里ほどすると、心持ち土地は上流石狩川の方へ傾斜して行っていた。河近くは「南瓜」や「唐黍」の畑になっていたが、畑のウネとウネの間に、大きな石塊いしくれが赤土や砂と一緒にムキ出しに転がっていた。石狩川が年一度、五月頃氾濫して、その辺一帯が大きな沼のようになるからだった。――畑が尽きると、帯の幅程の、まだ開墾されていない雑草地があり、そこからすぐ河堤になっていた。子供達は釣竿を振りながら、腰程の雑草を分けて、河へ下りて行った。

 河向うは砂の堤になっていて、色々な形に区切られた畑が、丁度つぎはぎした風呂敷のように拡がっていた。こっちと同じ百姓家の歪んだ屋根がボツ、ボツ見えた。


     「移民案内」


「内地の府県に於ては、自作地は勿論、小作地と雖も新に得ることは仲々困難であるのに反して、北海道に移住し、特定地の貸付をうけ、五ヵ年の間にその六割以上を開墾し終る時は、その土地を無償で附与をうけ、忽ち五町歩乃至十町歩の地主となるを得、又資金十分なるものは二十町歩土地代僅か八百円位で、未墾地の払下げを受け得べく、故に勤勉なるものは、移住後概して生活に困難することなし……。」(「北海道移住案内」北海道庁、拓殖部編)


「……数年を経て、開墾の業成るの後は、穀物も蔬菜も豊かに育ち、生計にも余裕を生じ、草小屋は柾屋に改築せられ、庭に植えたる果樹も実を結ぶなど、其の愉快甚だ大なるものあらん。この土地こそ、子より孫と代々相伝えて、此の畑は我が先祖の開きたる所、この樹は我先祖の植えたるものなりと言いはやされ、其の功は行末永く残るべし。」(「開墾及耕作の栞」北海道庁、拓殖部編)


「……実際、我国の人口、食糧問題がかくまでも行き詰りを感じている現今、北海道、樺太の開墾は焦眉の急務であると思います。そのためには個人の利害得失などを度外視して、国家的な仕事――戦時に於ける兵士と同じ気持を持ちまして、開墾に従事し、国富を豊かにしなければならない、こう愚考するものであります。」(某氏就任の辞)


「立毛差押」「立入禁止」「土地返還請求」「過酷な小作料」――身動きも出来なように[#「出来なように」はママ]縛りつけられている内地の百姓が、これ等に見向きしないでいることが出来るだろうか。――それは全くウマイところをねらっていた。

 S村は開墾されてから三十年近くになっていた。ではS村の百姓はみんな五町歩乃至十町歩の「地主」になっていたか? そして、草小屋は柾屋に改築されていたか?


     「誰も道で会わねばええな」


 健達の一家も、その「移民案内」を読んだ。そして雪の深い北海道に渡ってきたのだった。彼等も亦また自分達の食料として取って置いた米さえ差押えられて、軒下に積まさっていながら、それに指一本つけることの出来ない「小作人」だった。

 健は両親にともなわれて、村を出た日のことを、おぼろに覚えている。十四、五年前のことだった。――重い妹を負ぶって遊んで来ると、どこか家の中が変っていた。健は胸を帯で十字に締められて、亀の子のように首だけを苦しくのばしていた。

「母、もうええべよ。」と云った。

 母は細引を手にもって、浮かない風に家の中をウロウロしていた。父は大きな安坐あぐらをかいたまま煙草をのんで、別な方を見ていた。――母は健を見ると、いつになくけわしい顔をした。

「まだ外さ行えってれ!」

 父はだまっていた。

 健はずれそうになる妹をゆすり上げ、ゆすり上げ、又外へ出た。――半分泣いていた。それから一時間程して帰ってくると、家の中はガランとして、真中に荷造りした行李と大きな風呂敷包が転がっていた。父と母が火の気のない大きく仕切った炉辺にだまって坐っていた。薄暗い、赤ちゃけた電燈の光で、父の頬がガクガクと深くけずり込まれていた。

「早く暮れてければええ……」――独り言のように云った。父だった。

 暗くなってから、荷物を背負って外へ出た。峠を越える時、振りかえると、村の灯がすぐ足の下に見えた。健は半分睡り、父に引きずられながら、歩いた。暗い、深い谷底に風が渡るらしく、それが物凄く地獄のように鳴っていた。――健はそれを小さい時にきいた恐ろしいお伽噺とぎばなしのように、今でもハッキリ思い出せる。

「誰とも道で会わねばええな。」――父は同じことを十歩も歩かないうちに何度も繰りかえした。

 五十近い父親の懐には「移民案内」が入っていた。

 道庁で「その六割を開墾した時には、全土地を無償で交付する」と云っている土地は、停車場から二十里も三十里も離れていた。仮りに、其処からどんな穀物が出ようが、その間の運搬費を入れただけで、とても市場に出せる価格に引き合わなかった。――それに、この北海道の奥地は「冬」になったら、ロビンソンよりも頼りなくなる。食糧を得ることも出来ず、又一冬分を予め貯えておく余裕もなく、次の春には雪にうずめられたまま、一家餓死するものが居た。――石狩、上川、空知の地味の優良なところは、道庁が「開拓資金」の財源の名によって、殆んど只のような価格で華族や大金持に何百町歩ずつ払下げてしまっていた。「入地百姓――移民百姓」は、だから呉れるにも貰い手のない泥炭地の多い釧路、根室の方面だけに限られている。

「開墾補助費」が三百円位出るには出た。然し家族連れの移住費を差し引くと、一年の開墾にしか従事することが出来なくなる。結局「低利資金」を借りて、どうにか、こうにかやって行かなければならない。――五年も六年もかかって、ようやくそれが畑か田になった頃には、然しもう首ッたけの借金が百姓をギリギリにしばりつけていた。

 何千町歩もの払下げをうけた地主は、開墾した暁にはその土地の半分を無償でくれる約束で、小作人を入地させながら、いざとなると、その約束をごまかしたり、履行しなかった。

 健の父は二年で「入地」を逃げ出してしまった。「移民案内」の大それた夢が、ガタ、ガタと眼の前で壊れて行った。仕方のなくなった父親は「岸野農場」の小作に入ったのだった。

「日雇にならねえだけ、まだええべ。」


     村に地主はいない


 何処の村でも、例外なく、つぶれかかっている小作の掘立小屋のなかに「鶴」のようにすっきり、地主の白壁だけが際立っているものだ。そしてそこでは貧乏人と金持が、ハッキリ二つに分れている。然し、それはもう「昔」のことである。

 北海道の農村には、地主は居なかった。――不在だった。文化の余沢が全然なく、肥料や馬糞の臭気がし、腰が曲って薄汚い百姓ばかりいる、そんな処に、ワザワザ居る必要がなかった。そんな気のきかない、昔型の地主は一人もいなかった。――その代り、地主は「農場管理人」をその村に置いた。だから、彼は東京や、小樽、札幌にいて、ただ「上あがり」の計算だけしていれば、それでよかった。――S村もそんな村だった。

 岸野農場の入口に、たった一軒の板屋の、トタンを張った家が吉本管理人の家だった。吉本は首からかぶるジャケツに背広をひっかけ、何時でも乗馬ズボンをはいて歩いていた。

「この村では、俺わしを地主だと思ってもらわにゃならん。」

 初めて来たとき、小作を集めてそう云った。


S村――田の所有分布。

二百町歩――S村所有田

百五十町歩――大学所有田・「学田がくでん」

百二十町歩――吉岡(旭川)

五百町歩――岸野(小樽)

二百町歩――馬場(函館)

二百十町歩――片山子爵(東京)

三百町歩――高橋是善(東京)

外ニ、自作農五戸、百五十町歩。


     「巡査」と「※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256-上-12]の旦那」


 市街地には、S村青年団、S村処女会があって、小学校隣接地に「修養倶楽部」を設け、そこで色々な会合や芝居をやる。――会長は校長。副会長には「在郷軍人分会長」をやっている※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256-上-16]荒物屋の主人。巡査。それに岸野農場主が名誉相談役となっていた。――健達の通っている「青年訓練所」も、その「修養倶楽部」で毎晩七時からひらかれていた。

 巡査は一日置きに自転車で、「停車場のあるH町」に行ってきた。――おとなしい、小作の人達にも評判のいい若い巡査だった。途中、よく自転車を道端に置き捨てにして、剣をさげたまま、小便をしていた。それが田に働いている小作達に見えた。暇になると、小作の家へやってきて話して行った。――然し一度岸野の小作達が小作料のことで、町長へ嘆願に出掛けたことがあってから、小作人達のところへは、プッつり話しに来ないようになってしまった。そのことでは随分噂が立った。「岸野から金でも貰ったべよ。」と云った。

 以前、殊に親しくしていた健の母親はうらんだ。

「随分現金だな。」――然し石田さんに限って、そんな「噂」はある筈がない、と云っていた。

 石田巡査はそれから※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256-下-16]や吉本管理人と村道を、肩をならべて歩くのが眼につき出した。


 ――※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256-下-19]の荒物屋からは、どんな小作も「店借たながり」をしている。

 一年のうち、きまった時しか金の入らない百姓は、どうしても掛買しか出来ない。それに支払は年二回位なので、そこをツケ目にされた。現金なら五十銭に売り、しかもそれで充分に儲けているものを「掛」のときには五十七、八銭にする。どの品物もそうする。小作人はそれが分っていて、どうにも出来ず、結局そこから買わなければならなかった。――※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-上-6]は三年もしないうちに、メキメキと「肥えて」行った。

 蜘蛛の巣を思わせる様に、どの百姓も皆※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-上-8]の手先にしっかりと結びつけられ、手繰り寄せられている。

 村に「信用購買販売組合」が出来てから、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-上-10]との間に問題が起った。――今迄とは比べものにならない程安く品物が買えるので、小作人は「組合」の方へドシドシ移って行った。と、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-上-13]はだまってはいない。――若し「組合」の方へ鞍替するような「恩知らず」がいたら、前の借金がものを云うぞ、と云い出した。人のいい小作達は、そう云われて、今迄あんなに気儘に借金をさせて貰ったのに、それは本当に忘恩なことだ、と思った。

 ※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-上-18]は小作人が金が払えないと、米や雑穀でもいいと云った。――百姓が町へ行って、問屋に売る値段で、それを引きとってくれた。それで※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-上-20]は貸金の回収をうけると同時に、それを又売りして、そこから利ざやを――つまり二重に儲けていた。

 在郷軍人分会長、衛生部長、学務何々……と、肩書をもっている※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-下-3]の旦那のようになりたい、それが小作人の「夢」になっている。――小作人達は道で、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-下-4]の旦那に会うと、村長や校長に会った時より、道をよけて、丁寧に挨拶した。「青年訓練所」では、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-下-6]の旦那が「修養講話」をやった。


     夜道


 健達は、士官の訓練が終って、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257-下-8]の「修養講話」になると、疲れから居睡りをし出した。「青年の任務」「思想善導」「農民の誇」……何時いつもチットモ変らないその講話は、もう誰も聞いているものがなかった。

 外へ出ると、生寝なまねの身体にゾクッと寒さが来た。霧雨は上っていたが、道を歩くと、ジュクジュクと澱粉靴がうずまった。空は暗くて見えなかった。然し頭を抑えられているように低かった。何かの拍子に、雨に濡れた叢がチラチラッと光った。

「もう一番終ったか?」――後から七之助が言葉をかけた。

 健はたまらなく眠かった。「ええや、まだよ、人手がなくなってな。」

 誰かがワザと大きくあくびをした。

「健ちゃは兵隊どうだべな。」

「ん、行かねかも知らねな。……んでも、万一な。」

「その身体だら行かねべ。青訓さなんて来なくたってええよ。」

 すると今迄黙っていた武田が口を入れた。――「徴兵の期間ば短くするために青訓さ行えぐんだら、大間違いだど!」

 初まった、と思うと、七之助はおかしかった。

「あれはな、兵隊さ行ぐものばかりが色々な訓練を受けて、んでないものは安閑としてるべ、それじゃ駄目だッてんで、あれば作ったんだ。兵隊でないものでも、一つの団体規律の訓練をうける必要はあるんだからな。」

「所で、現時の農村青年は軽チョウ浮ハクにして、か!……」

 七之助が小便しながら、ひやかした。叢の葉に、今迄堪えていたような小便が、勢よくバジャバジャと当る音がした。

「ん。」――武田が真面目にうなずいた。

 恐らく、どんな労働者よりも朝早くから、腰を折りまげて働いている百姓が、都会の場末に巣喰っている朝鮮人よりも惨めな生活をしている。それでも農村の青年は「軽チョウ浮ハク」だろうか。――これ以上働かして、それでどうしようというのだ。――健は、出鱈目を云うな、と思った。

「七しっちゃ、小樽行きまだか。」

「ん、もうだ。」

「もうか?」

 又、七之助とも離れてしまわなければならないか、と思うと、健は淋しかった。――健の好きなキヌも札幌へ出て行っていた。製麻会社の女工に募集されて行ったのだった。然し、それが一年しないうちに、バアの女給をしているという噂になって、健の耳に戻ってきた。

 ……話が途切れると、泥濘ぬかるみを歩く足音だけが耳についた。田の水面が、暗い硝子板のように光ってみえた。

 七之助はとりとめなく、色々な歌の端だけを、口笛で吹きながら歩いていた。七之助も何か考え事をしている。

「三吾の田、出が悪いな。」――七之助が蹲んで、茎をむしった。

「三吾も不幸ばかりだものよ。」

 ――三吾が自分のでもない泥炭地の田を、どうにか当り前にしようと、無理に、体を使った。そして二度「村役場」と「道庁」から表彰された。「農夫として、その勤強力行は範とするに足る」と云われた。岸野が道庁へ表彰方を申請したのだった。

 その額椽を、天井裏のない煤けた家の中に掛けた日から、二タ月もしないうちに、三吾は寝がえりも出来ない程の神経痛にかかってしまった。痛みは寝ると夜明け迄続いた。三吾は藁束のようにカサカサに乾しからびて、動けなくなってしまった。――毎日「表彰状」だけを見ていた。

 それは然し、三吾ばかりでない。――東三線の伊藤のおかみさんは、北海道の冷たい田に、あまり入り過ぎたので、三月も腰を病んで、それからは腰が浮かんで、何時でも歩くときは、ひどい跛びっこのように振った。

 吉本管理人の家へ、何かで集ることがある。彼等はどれもみんな巌丈な骨節をし、厚い掌をしているが、腰が不恰好にゆがんだり、前こごみであったり、――何処か不具かたわだった。みんなそうだった。

 市街地の端から、武田が別れてアゼ道に入って行った。

「健ちゃ、武田の野郎やっぱり※[#「┐<△」、屋号を示す記号、259-上-18]さ出入りしてるとよ。」

 口笛をやめて、すぐ七之助が云った。

「んか……」

「お前え、それから岸野がワザワザ小樽から出てきて、とッても青訓や青年団さ力瘤ちからこぶば入れてるッて知らねべ。」

「んか?」

「阿部さんや伴さんが云ってたど。――キット魂胆があるッて。」

「ん?」――健にはそれがハッキリ分らなかったが――何か分る気持がした。


     「熱ッ、熱ッ、熱ッ※(感嘆符二つ、1-8-75)」


 健は足を洗いに、裏へ廻った。湿った土間の土が、足裏にペタペタした。物音で、家の中から、「健かア――?」と母親が訊いた。

「う。」――口の中で返事をしながら、裾をまくって、上り端に腰を下した。――厩うまやの中から、ムレた敷藁の匂いがきた。

 由三はランプの下に腹這いになって、両脛をバタバタ動かしながら、五、六枚しかついていないボロボロの絵本を、指を嘗め嘗め頁を繰っていた。

「姉、ここば読んでけれや。」

 由三は炉辺でドザを刺していた姉の肱をひいた。

「馬鹿ッ!」

 姉はギクッとして、縫物をもったまま指を口に持って行って吸った。「馬鹿ッ! 針ば手さ刺した!」

 由三は首を縮めて、姉の顔を見た。――「な、姉、この犬どうなるんだ?」

「姉なんか分らない。」

「よオ――」

「うるさい!」

「よオ――たら!――んだら、悪戯いたずらするど!」

 健は炉辺に大きく安坐をかいて坐った。指を熊手にして、ゴシゴシ頭をかいた。

 家の中は、長い間の焚火のために、天井と云わず、羽目板と云わず、ニヤニヤと黒光りに光っていた。天井に渡してある梁はりや丸太からは、長い煤が幾つも下っていて、それが下からの焚火の火勢や風で揺れた。――ランプは真中に一つだけ釣ってある。ランプの丸い影が天井の裸の梁木に光の輪をうつした。ランプが動く度に、その影がユラユラと揺れた。誰かがランプの側を通ると、障子のサンで歪んだ黒い影が、大きく窓を横切った。ランプは始終ジイジイと音をさせて、油を吸い上げた。時々明るくなったかと思うと、吸取紙にでも吸われるように、すウと暗くなった。

「さっきな、阿部さんと伴さん来てたど。」

「ン――何んしに?」

「なア、兄あんちゃ、犬ど狼どどっち強つえんだ。――犬だな。」

「道路のごとでな。今年も村費が出ねんだとよ。」

「今年もか――何んのための村費道路だんだ。馬鹿にする。又秋、米ば運ぶに大した費用いりだ……。」

「兄ちゃ、犬の方強えでアな!」

「んで、どうするッて?」

「暇ば見て、小作人みんな出て直すより仕方が無えべど。――村に金無えんだから。」

「犬だなア、兄ちゃ……。」

「うるさいッ!」いきなり怒鳴りつけた。――「又小作いじめだ! 弱味につけ込んでやがるんだ。放ってけば、どうしたって困るのア小作だ。んだら、キット自分の費用でやり出すだろうッて、待ってやがったんだ。――村会議員なんて、皆地主ばかりだ。勝手なことばかりするんだ。」

 S村で、以前、村役場に対して小作争議を起したことがあった。北海道は町村が沢山の田畑を所有していて、それに小作を入地させていた。それで、よく村相手の争議が起った。――然しS村の村会議員が全部地主であったために、後のこともあり、又やがては自分達の方への飛火をも恐れて、頑強に対峙してきたために、惨めに破れたことがあった。

「明日吉本さんの処さでも集って、相談すべアって。」

 おはぐろの塗りのはげた母親の、並びの悪い歯の間に、飯が白く残っていた。

「………………。」

 健は塩鱒の切はしを、せッかちにジュウ、ジュウ焼いて、真黒い麦飯にお湯をかけて、ザブザブかッこんだ。

 風が出てきたらしく、ランプが軽く揺れた。後の泥壁に大きくうつッている皆の影が、その度に、あやつられるように延びたり、ちぢんだりした。

 由三は焚火に両足をたてて、うつらうつらしていた。

「母はば、いたこッて何んだ?――山利やまりさいたこ来てな、今日お父どばおろして貰ったけな、お父今えま死んで、火の苦しみば苦しんでるんだとよ。」

「本当か?」

「いたこッて婆だべ。いたこ婆ッてんだべ。――いたこ婆さ上げるんだッて、山利で油揚ばこしらえてたど。」

「お稲荷様だべ。」

「お稲荷様ッて狐だべ。んだべ!」――由三が急に大きな声を出した。

「ん。」

「んだべ、なア!」――独り合点して、「勝ところの芳よしな、犬ばつれて山利さ遊びに行えったら、とオても怒られたど。」

「そうよ。――勿体ない!」

「山利の母な、お父ば可哀相だって、眼ば真赤にして泣いてたど。」

「んだべ、んだべ、可哀相に!」

「な、兄ちゃ、狐……」――瞬間、炉の火がパチパチッと勢いよくハネ飛んだ。それが由三の小さいひょうたん形のチンポへ飛んだ。

「熱ッ、熱ッ、熱ッ※(感嘆符二つ、1-8-75)……」

 由三はいきなり絵本を投げ飛ばすと、後へひっくりかえって、着物の前をバタバタとほろった。泣き声を出した。「熱ッ、熱ッ※(感嘆符二つ、1-8-75)」

「ホラ、見れ! そったらもの向けてるから、火の神様に罰が当ったんだ。馬鹿!」

 姉のお恵が、物差しで自分の背中をかきながら、――「その端さきなくなってしまえば、ええんだ。」と、ひやかした。

「ええッ、糞ッ! 姉の白首ごけ!」

 ベソをかきながら、由三が喰ってかかった。聞いたことのない悪態口に、皆思わず由三をみた。

 母親がいきなり、由三の小さい固い頭を、平手でバチバチなぐりつけた。

「兄ちゃ、由この頃どこから覚べえて来るか、こったら事ばかり云うんだど!」

 お恵は背中に物差しをさしたままの恰好で、フイに顔色をかえた。それが見る見るこわばって行った。

 と、お恵は、いきなり、由三を物差しで殴りつけた。ギリギリと歯をかみながら、ものも云わずに。物差しがその度に、風を切って、鳴った。――そして、それから自分で、ワアッ! と泣き出してしまった……

 明日は三時半頃から田へ出て、他の人より遅れている一番草を刈り上げてしまわなければならない。――健は、然し、眠れなかった。表を誰かペチャペチャと足音をさして、通って行った。健は起き上った。ランプの消えた暗い土間を、足先きで探りながら、台所へ下りて行った。水甕から、手しゃくで、ゴクリゴクリのどをならしながら、水を飲んだ。厩小屋から、尻毛でピシリピシリ馬が身体を打っている音が聞えた。

 夜着をかぶると、間もなく、ねじのゆるんだ、狂った柱時計が、間を置きながら、ゆっくり七つ打った。

[#改段]


    二



     「S相互扶助会」発会式


 正面の一段と高いところには「天皇陛下」の写真がかかっていた。

「修養倶楽部」の壁には、その外「乃木大将」「西郷大先生」「日露戦争」「血染の、ボロボロになった連隊旗」などの写真が、額になってかかっていた。演壇の左側には、払下げをうけた、古ぼけた旧式な鉄砲が三挺組合せて飾ってある。――乃木大将の話は百姓は何度きいても飽きなかった。

 演壇には「S相互扶助会」発会式の順序と、その両側に少し離して、この会が主旨とする所の標語が貼り出されていた。

  ┌───────────┐

  │ 海田山林の開発より │

  │  心田を開拓せよ! │

  └───────────┘


  ┌───────────┐

  │ 強靱なる独立心と  │

  │ 服従の美徳と    │

  │ 協同の精神へ!   │

  └───────────┘


 会が終ってから、「一杯」出るという先触れがあったので、何時になく沢山の百姓が集っていた。「停車場のあるH町」からも来ていた。大概の小作は、市街地の旦那やH町の旦那から「一年」「二年」の借金があるので、一々挨拶して歩かなければならなかった。

 小作が挨拶に行くと、米穀問屋の主人は大様にうなずいた。

「今年はどうだ?」

「ええ、まア、今のところは、ええ、お蔭様で……」

 小作は腰をかがめて、一言一言に頭を下げた。――それが阿部や健たちの居る処から一々見える。健も借金があった。こんな時に、一寸挨拶して置けば、都合がよかった。それに若し今年兵隊にとられるような事になれば、病身の父や女の手ばかりの後のことでは、キット世話にならなければならない。――健はフトその側を通りかかった、という風にして挨拶した。――挨拶をしてから、然し自分で真赤になった。健は「模範小作」だったので、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、263-下-3]の旦那も心よく挨拶を返してくれた。

 会場の中は、自然に、各農場別に一かたまり、一かたまり坐らさった。お互が車座になって、話し込んでいる。――小作達は仲々こう一緒になれる機会がなかった。無骨な、日焼けした手や首筋が、たまにしか着ない他所行きの着物と不釣合に、目立った。裂け目の入った、ゴワゴワした掌に、吸殻をころがしながら、嫁のこと、稲の出揃いのこと、青豌豆のこと、小豆のこと、天気のこと、暮しのこと、旦那のこと……何んでも話し合った。

 ――こういう会の時は巻煙草を吸うものだとしている小作が、持ちなれない手つきで、「バット」を吸っていた。

 夜遊びに、H町へ自転車で出掛けたり、始終村の娘達と噂を立てている若いものは、その仲間だけ隅の方に陣取って、人を馬鹿にしたような大声を出して、しきりなしに笑っていた。女の話をしていた。伊達に眼鏡をかけたり、黒絹のハンカチを巻いたりしている。然し青年団の仕事や「お祭り」の仕度などでは、娘達とフザけられるので、それ等は先きに立って、よく働いた。

 子供達は「鬼」をやって、走り廻っていた。大人達を飛び越え、いきなりのめり込んだり――坐っている大人を、まるで叢のように押しわけて、夢中で騒いでいた。時々、大声で怒鳴られる。が、すぐ又キャッキャッと駈け出す。……煙草の煙がコメて、天井の中央に雲のように、層をひいていた。


     「阿部さん」


「小樽さ行えぐごとに決ったど。」

 阿部と一緒に七之助がいて、健を見ると云った。

「工場さ入るんだ。――伯母小樽にいるしな。……んでもな、健ちゃ、俺あれだど、百姓嫌えやになったとか、ひと出世したいとか、そんな積りでねえんだからな。――阿部さんどよく話したんだども、少しな考えるどこもあるんだ……」

「ん……」――健は分っていた。

「村ば出れば、案外、村が分るもんだからな。」

 阿部が何時もの低い、ゆるい調子で云った。――農場で何かあると、それが子供を産んだとか、死んだとか、ということから、小作調停、小作料の交渉まで、キット皆「阿部さん」を頼んだ。足を使ってもらった。――四十を一つ、二つ越していた。荒々しい動作も、大きな声も出さない、もどかしい程温しい人だった。

 何時でも唇を動かさないで、ものを云った。

「阿部さんは隅ッこにいれば、一日中いたッて誰も気付かねべし、阿部さんも黙って坐ってるべ。」

――七之助がよく笑った。

 村では、四人も五人も家族を抱えて働いている四、五十位の小作人の方が、遊びたい盛りのフラフラな若い者達より、生活くらしのことではずッと、ずッと強い気持をもっている。――小作争議の時など、農民組合で働いている若い人は別として、何処でも一番先きに立って働くのは、その年の多い小作だった。――阿部はその一人だった。

 阿部は旭川の農民組合の人達が持ってくる「組合ニュース」や「無産者新聞」を、田から上った足も洗わないで、床を低く切り下げて据付けてあるストーヴに、いざり寄って読んだ。丹念に、一枚の新聞を何日もかかって、一字一字豆粒でも拾うように読んでいた。壊れた、糸でつないだ眼鏡を、その時だけかけた。

 彼が畔道を、赤くなってツバの歪んだ麦稈帽子をかぶり、心持ち腰を折って、ヒョコヒョコ歩いているのを見ると、吉本管理人ではないが、「あんな奴が楯をつくなんて!」考えられなかった。


     模範青年


「見れ、武田の野郎、赤い徽章ば胸さつけて、得意になって、やってる、やってる!」

 七之助が演壇の方を顎でしゃくった。――阿部はだまって笑っていた。

「な、健ちゃ、青年同盟だ、相互扶助会だなんて云えば、奇妙にあのガキガキの武田と女たらしの、ニヤケ連中が赤い徽章ばつけて、走って歩くから面白いんでないか。――健ちゃみだいた模範青年やるとええにな。」

 健はひょいと暗い顔をした。

「笑談だ、笑談だ! ハハハハハハ。」

 ――健は役場から模範青年として、表彰されていた。その頃は、まだ丈夫だった父親が「表彰状」をもって、どうしていいか自分でも分らず、家のなかをウロウロしたことを覚えている。――健も自分の努力が報いられたと思い、嬉しかった。

 ところが一寸ちょっと経って、健と小学校が一緒だった町役場に出ている友達が、健に云った。――近頃農村青年がともすれば「過激な」考えに侵され勝ちで、土地を何百町歩も持っている地主は困りきっている。丁度村に来ていた岸野と吉岡が、町役場で、そんなことで相談したのを給仕のその友達が聞いたのだった。

「表彰でもして、――情の方から抑えつけて、喜んで働かして置かないと、飛んでもなくなる。」吉岡がそう云った。

「少し張り込んで、金箔を塗った立派な表彰状を出してさ、授与式をワザと面倒臭く、おごそかにすれば、もう彼奴等土百姓はわけもなくころりさ。」――そう云ったのが岸野だと云うのだった。

 ――まさか※(感嘆符疑問符、1-8-78)

 校長を信頼していた健が、そのことを直ぐ校長に話してみた。

「そんな馬鹿な、理窟の通らない話なんかあるものか。お前さんが親孝行だし、人一倍一生懸命に働くからさ。」と云った。――健だって、それはそうだろう、と思った。

 阿部だけは、地主やその手先の役場の、とても上手うまい奸策だと云った。

「もう少し喰えなくなれば、模範青年ッて何んだか、よく分るえんになる。」

 ――皆ねたんでいる!――健はその当時は阿部に対してさえそう思った。

 然し、健は、父親の身体が変になり、働きが減り、いくら働いても(不作の年でも!)それがゴソリゴソリと地主に取り上げられて行くのを見ると、もとはちっともそうでなかったのに、妙に投げやりな、底寒い気持になった。切りがない、と思わさった。――「何んだい模範青年が!」――阿部の云ったことが、思い当ってきた。

 それから健は、誰にでも「模範青年」と云われると、真赤になった。


     「武田」


 会が始まった。

「開会の辞」で武田が出た。如何にも武田らしく演壇に、兵隊人形のように直立して、演説でもするように、固ッ苦しい声で始めた。聞きなれない、面倒な熟語が、釘ッ切れのように百姓の耳朶みみたぶを打った。

 ――……この危機にのぞみ、我々一同が力を合わせ、外、過激思想、都会の頽風と戦い、内、剛毅、相互扶助の気質を養い、もって我S村の健全なる発達を図りたい微意であるのであります。

 ――……なお、此度このたびは旭川師団より渡辺大尉殿の御来臨を辱うし、農場主側よりは吉岡幾三郎氏代理として松山省一氏、小作方よりは不肖私が出席し、ここに協力一致、挙村円満の実をあげたいと思うのであります。

 七之助は聞きながら、一つ、一つ武田の演説を滑稽にひやかして、揚足をとった。

「武田の作ちゃも偉ぐなったもんだな。――悪たれだったけ。」

 健の前に坐っている小作だった。――「余ッ程、勉学したんだべ。」

 七之助が「勉学」という言葉で、思わず、プウッ! とふき出してしまった。

「大した勉学だ。――※[#「┐<△」、屋号を示す記号、266-下-17]と地主さん喜ぶべ。円満円満、天下泰平。」

 健とちがって、前から七之助にはそういう処がある。洒落しゃれやひやかしが、百姓らしくなく、気持のいい程切れた。


     「地主代理」


 地主代理は思いがけない程子供らしい、細い声を出した。それに話しながら、何かすると、ひょいひょい鼻の側に手を上げた。それが百姓達には妙に「人物」を軽く見させた。七之助は、そら七ツ、そら十一だ、そら又、……と、数えて笑わせた。――地主と小作人は「親と子」というが、そんなに離れたものでなしに、「頭脳と手」位に緊密なもので、お互がキッチリ働いて行かなければ、この日本を養って行くべき大切な米が出来なくなってしまう。他所よそでは此頃よく「小作争議」のような不祥事を惹き起しているが、この村だけはそんな事のないように、その意味でだけでも、この新に出来た組合が大いに働いて貰いたい。……地主代理は時々途中筋道をなくして、ウロウロしながら、そんな事を云った。

「分りました。んだら、もう少し小作料ば負けて貰いたいもんですなア――。」

 誰かが滑稽に云った。――皆後を振りむいて、どッと笑った。


     「佐々爺」


 こういう会があると、「一杯」にありつける。何時でも、それだけが目当でくる酒好きな、東三線北四号の「佐々爺」がブツブツこぼした。

「糞も面白ぐねえ。――早く出したら、どうだべ。」

「んだよ、んだよ、な、佐々爺。」――七之助が面白がった。

「飽き飽きするでえ!」

 佐々爺は何時でも冷酒を、縁のかけた汁椀についで、「なんばん」の乾ほしたのを噛り、噛り飲んだ。――それが一番の好物で、酔うと渋い案外透る声で、猥らな唄の所々だけを歌いながら、真直ぐな基線道路をフラフラ帰って行った。――佐々爺が寄ると、何処の家でも酒を出した。酒が生憎なかったりすると、佐々爺は子供のように、アリアリと失望を顔に表わして頼りなげに肩を振って帰って行った。

 佐々爺は晩出たきり、朝迄帰らない時がある。酔払って、田の中に腐った棒杭のように埋ったきり眠っていた。探しに行ったものが揺り起しても、いい気に眠っていた。

「女郎の蒲団さもぐり込んだえんた顔してやがる!」

 ところが、佐々爺は村一番の「政治通」だった。「東京朝日」「北海タイムス」を取っているものは、市街地をのぞくと、佐々爺だけで、浜口、田中、床次、鳩山などを、自分の隣りの人のことよりも、よく知っていた。今度床次がどうする、すると田中がこうする。――分った事のように云って歩く。自分では政友会だった。

 阿部に「爺さんは、どうして政友会かな?」と、きかれて、「何んてたッて政友会だべよ。政友会さ。百姓にゃ政友会さ。景気が直るし、仕事が殖えるしな。」と云った。

「この会、政友会さ肩もつッてたら、うんと爺ちゃ応援すべな。」

 七之助がひやかした。

「政友会ば?――んだら、勿論、大いにやるさ。勿論!」


     「広く農村にも浸潤されなければならない」


 次は「渡辺大尉」だった。

 軍帽を脇の下に挟んで、ピカピカした膝迄の長靴に拍車をガチャガチャさせて、壇に上ってくると、今迄ガヤガヤ騒いでいたのが、抑えられたように静かになった。が、すぐ、ガヤガヤが返ってきた。――子供達は肩章の星の数や剣について、しゃべり出した。口争いを始めた。――百姓は、たまに軍人が通ると、田の仕事を忘れて、何時迄も見送っていた。兵隊のことになると、子供と同じだった。

「農村に於ける軍人的精神」――それが渡辺大尉の演題だった。軍隊に於ける厳格なる秩序、正しい規律、服従関係を色々な引例をもって説明し、これこそが外国から決して辱かしめられた事のない日本の強大な兵力を作って居るものであり、そしてこの精神は、ひとり軍隊内ばかりでなく、広く農村にも浸潤されなければならない。殊に外来悪思想がややもすれば前途ある青年を捉え、この尊い社会秩序を破壊せんとするに於ては、益※(二の字点、1-2-22)健全なる軍人精神が、実に農村に於てこそ要求されなければならないのである。――そういう意味のことを云った。

 武田達は終るのを今か、今かと待っていて、さきがけをして拍手をした。

「阿部さん。」

 後から小作が声をかけた。――「外来何んとか思想だかって、あれ何んですかいな。さっきから、どの方も、どの方も仰言るんですけれどねえ。」

「さあ……」阿部は一寸考えていた。「この村にそんなもの無えんでしょう……。」

 それから別のことのように、笑談らしく、「んでも、あんまり小作料ば負けてけれ、負けてけれッて云えば、地主様の方で怒って、過激思想にかぶれているなんて、云うかも知れないね。」――云ってしまってから、口のなかだけで笑った。

 武田は又上ると、会の性質、目的、入会条件、事業等について説明した。余興に入り、薩摩琵琶、落語、小樽新聞から派遣された年のとった記者の修養講話――「一日講」――があり、――そして、「酒」が出ることになった。

「馬鹿に待たせやがったもんだ。」

「犬でもあるまいし、な!」

 胃の腑の中に、熱燗の酒がジリジリとしみこんで行くことを考えると、日焼けした百姓ののどがガツガツした。――誰でもそう酒に「ありつけ」なかった。

「今日は若い女手は無えんだと。」

「んとか?」

「又、良ええ振りして、武田のしたごッだべ!」

 それでも、女房達や胸に花をつけた役員などが、酒をもって入って来ると、急に陽気になった。


 武田が股梯子をもって来て、皆から見える高いところへビラを張りつけた。

 ┌───────────────────────┐

 │  酒一斗             校長先生 │

 │  金三十円也           岸野殿  │

 │  ビール一打           ※殿   │

 │  ビール一打           吉岡殿  │

 │  手拭百本            H町長殿 │

 │  金十円也            相馬殿  │

 │ 右本会設立ヲ祝シ、各位ヨリ御寄贈下サイマシ │

 │ タ。                    │

 │ 有難ク御礼申上ゲル次第デアリマス。     │

 │                    幹事 │

 └───────────────────────┘

[#罫内の「※」は「※[#「┐<△」、屋号を示す記号、269-下-5]」]


「ホオーッ!」

「豪儀なもんだ。矢張りな。」

「有難いもんだ。」

 盃と銚子がやかましく、カチャカチャと触れ合った。

 ――役員や招待された人や講演した人達は、吉本管理人の宅へ引き上げた。そこで水入らずの「酒盛」を始めた。H町からは、自動車で酌婦が七、八人やってきた。――皆は夜明け近く迄騒いでいた。酌婦達はその夜帰らなかった……

 阿部や健達は一足先きに表へ出た。星が高い蒼い空に、粒々にきらめいていた。出口から少し離れた暗がりで、二、三人、並んで長い小便をしていた。――側を通ると、

「オ、阿部君!」

 ガラガラ声で、伴だった。健と七之助は頭を下げた。

 寄ってきて、阿部に、「どうだ、この魂胆は!――直ぐ、あっちさ通信頼むど。」――声を低めて云った。

 健は黙って、皆の後をついて行きながら、兎に角、近いうちに阿部を訪ねてみよう、と考えていた。

[#改段]


    三



     節は悲しかった


「んで……?」

「……………」

 節さだは一言も云わなくなってしまった。

 健もだまったまま歩いた。

 昼のうちに熟むれていた田から、気持の悪いぬるい風が、ボー、ボー、と両頬に当って、後へ吹いて行った。歩いて行くのに従って、蛙が鳴きやみ、逆に後の方から順々に鳴き出した。

「どうした?」

「……………」

「ええ?」

「……………」

 だまっている。ひょいと見ると、闇の中で白い横顔がうつむいていた。

「川の方さでも行えぐか?」

「……………」

 川の方へ曲がると、矢張りついてきた。悪戯をして、一寸つッついても、何時でも身体をはずませて、クックッと笑いこけるのに、顎をひいて、身体をコッちりさせている。女に黙られると、もうかなわなかった。――途中の家々では窓をあけて、「蚊いぶし」をやっていた。腰巻一つの女が、茣蓙の上へ、ジカにゴロゴロしているのが見える。――暑苦しい晩だった。

 河堤に出る雑草を分けて行くと、細身の葉が痛く顔に当った。何処かで、ヒソヒソ声がする。――そんな組が二つも、三つもあった。二番草を終って、ここしばらく暇だった。

 堤に出ると、すぐ足の下の方で、話し合っている大きな声と一緒に、ザブザブと馬を洗っているらしい音がした。踏みの悪い砂堤に足を落し、落し出鼻を廻わると、河原で焚火をしていた。――夜釣りの魚を集めているらしく、時々燃えざしを川の真中へ投げた。パチパチと火の粉を散らしながら、赤い弧を闇にくっきり引いて、河面へ落ちると、ジュンと音をたてて消えた。水にもそれが映った。

「綺麗だね。」

 今度は健がだまった。そのまま沈黙が少し続くと、

「怒ったの?……」と、節が云った。

 やっぱり節だ。――短い言葉に節がすっかり出ている。健は急に節がいとおしく思われた。健は怒ってでもいるように、無骨に、女の肩をグイと引き寄せると、いきなり抱きすくめた。はずみで、足元の砂がズスズスッと、めり込んだ。

 節は何時ものように、歯をしめたままの堅い唇を、それでも心持ちもってきた。女の唇からは煮魚の、かすかに生臭い匂いがしていた。

「何食ってきたんだ。口ふけよ。」

 節は真面目な顔をくずさずに、子供のように袖で口をぬぐった……。

 二人は草を倒して敷いて、その上に腰を下した。こっちの焚火が映って、向う岸の雑木林の明暗が赤黒く、ハッキリ見えていた。

「健ちゃ、阿部さん好き?」

「……阿部さんのどこさあまり行えぐなッて云いたいんだべ。」

「……………」

「んだども、ま、阿部さんや伴さんど話してみれ。始めは、それア俺だって……」

「良ええ人だわ、二人とも。んでも……この前の会のことで、ビラば一枚一枚配って歩いたべさ。あれでさ……」

 ――「相互扶助会」が本当は何のために建てられ、黒幕には誰と誰がいて、表面如何にもっともらしく装っていても、裏には裏のあること、それ等の事が、「小作人よ、欺されるな。」という標題のビラにされていた。

「……あんなにしてやったのに、ビラば配るなんて恩知らずだッて、怒ってるワ。」

「誰だ?」

「……………」

「お前もだべ?――んだべ。」

「……誰でもさ。」

「こけッ!」

 二人とも、かたくなに黙り込んでしまった。

「な、節ちゃ。」――調子が変っていた。「節ちゃは、あれだろう。俺、模範青年になってる方がええんだべ。」

 健は節を「お前」と云ったり、「節ちゃ」と云ったりする。「節ちゃ」という時は、何か真面目なことを心に持っている時に限っていた。――節はそれを知っている。

「健ちゃだもの、滅多なことしねッて、わし思ってるわ。んでも淋しいの……。皆が皆まで健ちゃば見損った、見損ったッて云うかと思えば……。」

「節ちゃ、そう云っても、岸野の農場で阿部さんや伴さんさ誰だって指一本差さねえんでねえか。」

「それアんだわ。良え人ばかりだもの……。んでも阿部さんば煙ぶたがってるわ。」

「小作で無ねえ人はな。――俺達第一小作だからな。」

「変ったのね……。」

「模範青年の口から、そったら事聞くと思わないッてか?」

 健はかえって、それで自分を嘲あざけった。――「模範青年、模範青年!」

 節は不意に顔を上げた。

 焚火が消えると、四囲が暗く、静かになった。時々川の面で、ポチャッ――ポチャッ、と水音が立った。魚が飛び上るらしかった。

「今に分るさ……。遅くなった、帰るか、ん?」

 健は腰をあげて、前をほろった。しめッぽい草の匂いが、鼻に来た。節はしばらくじッとしたままでいた。――「ん?」と、もう一度うながすと、ようやく腰を起した。

「帰るウ?」

 健は雑草を分けて、歩き出した。

 向うを、「ここはみ国の何百里……」の歌を口笛で吹きながら、誰か歩いて行った。

「口笛、武田でねえかな。――曲るど。見つけられたら、良よえ模範青年だからな。」そして大きな声で笑った。

「もう、模範青年、模範青年ッてのやめてよ。」節は悲しい声を出した。

 ――節は悲しかった。健と会うときは、何時でも何かの期待でウキウキする。然し自分でもハッキリ分らなかったが、何んだか物足りない気持を残して、何時でも別れていた。健の何処かに冷たさがあると思った。それが悲しかった。

 村に入る角の「藪」を曲がると、その向い側の暗いところから、女が誰かに、くすぐられてでもいるらしく、息をつめてクックッと笑いこけているのが聞えた。が、二人の足音で、それがピタリとやんだ。草を掻き分ける音が続いた。

「な、節ちゃ。――此頃こんなに皆フザけてるんに、警察でなんで黙ってるか知ってるか。」

 外の人は何故こう面白そうにして、夜会うんだろう。――それを今見せつけられて、節はこみ上ってくる感情を覚えた。

「地主の連中があまり厳しくしないでけれッて云ってあるんだとよ。」

 無感動な男ひとだ、何を考えてるんだろう!――節は聞いていなかった。

「活動もあるわけでなし、そば屋もなしよ、遊場もねえべ、んだから若い者が可哀相だんだとよ、どうだ?」――そう云って、自分でムフフフフフと笑った。「有難い地主さんだな……」

「ところがな、阿部さんが云うんだ。――阿部さんッてば、お前すぐ嫌な顔すべ。――阿部さんが小樽の工場にいた時なんて、工場の隅ッこさ落ちてる糸屑一本持って外さ出ても、首になったりしたもんだどもな、女工さんの腹ば手当り次第に大でッかくして歩いても、そんだら黙ってるんだとよ。」

「まさか?……」

「だまって聞け。――それがな、こういう理由わけだんだと。そんなのを禁ずればな、お互い気が荒くなっ……」みんな云わせないうちに、節がプッと吹き出してしまった。

「この糞ッたれ!」

 健はそのまま口をつむんだ。然しすぐ又口を開いた。′

「な、仕事が苦しいべ、んだから何んかすれば直ぐ労働組合にひッかかって行くんだ。そうさせないためにするんだ――。」

「まアまア考えたもんだね。――んだら、わざわざ管理人さん達の肝入で出来た処女会はどうなるの?」

 健は後向きになって、急に大きな声を出した。

「そうさ、裏が裏だから、表だけは立派にして置ぐのさ。やれ節婦だ、孝子だッておだてあげて、――抑えて置くのよ。そこア、うまいもんよ。」

「分らないわ。」

 停車場のあるH町から通っている幌のガクガクした古自動車が、青白いヘッドライトを触角のように長く振りながら、一直線に村道から市街地に入ってきた。入口から、お客を呼ぶための警笛を続け様にならした。それが静かな市街地全体に響き渡った。――※[#「┐<△」、屋号を示す記号、274-上-16]の雑貨店から、ガラガラと戸を開けて周章てて誰か表へ飛び出した。

 二人は市街地をよけて、畔道へ入って行った。

「だんだんこッたら事ごとばかし仕していられなくなるど。」

 別れる時健が云った。

 節はだまって唇をかんだ。

 健が家へ帰って床に入り、ウトウトしかけた頃、表のギシギシする戸が開いた。

「恵か?――又だな……。何処さ今頃迄けづかったんだ?」

 暑苦しいので寝られずにいた母親が、眼をさまして声をかけた。お恵はだまったまま上ってきた。寝床のそばで、暗がりに伊達巻を解くシュウシュウという音だけがした。

[#改段]


    四



     「嘘こけッ!」


 同じ石狩川でも余程上流になっていたが、雑穀や米を運ぶために、稀まれに発動機船がポンポンと音をさせて上ってきた。その音は日によっては、ずウと遠く迄聞えた。「ホ、発動機船だ。」何処にいる小作でも、腰をのばしながら音をきいた。

 由三は村道を一散に走った。帯の結び目が横へまわって、前がはだけ、泥のはじけた汚い腹を出しながら、ムキになって走った。――発動機船の音をきいたのだ。他の子供も畔道を走ってくる、それが小さく見える。やがて村道で一緒になり、一緒に走り出した。

 皆は堤の突端へ並んで腰を下ろし、足をブラブラさせた。河はくねって、音もたてず、「流れ」も見せずに流れていた。――深かった。

 音はしていても、なかなか発動機船は姿を見せなかった。

そして、ひょッこり――まるっきりひょっこりと、青ペンキの姿をあらわした。青空に透きとおるような煙の輪を、ポンポン順よく吹き上げながら、心持ち身体をゆすって、進んでいるか、いないか分らない程の速さで上ってきた。艀はしけを後に曳いていた。と、皆は手と足を一杯に振って、雀の子のように口をならべて、「万歳!」を叫んだ。

 舵機室と機関室から、船の人が帽子を振って何か云った。皆は喜んで、又「万歳!」を叫んだ。

「な、あのバタバタッてのな。」――由三が隣りの奴の手をつかんで、自分の胸にあてた。「な、胸ドキッドキッてるべ、これと同じだんだとよ。――あれ船の心臓だとよ。俺の姉云ってたわ。」

「んか――?」

「嘘こけッ!」――三人目が首を突き出した。「あれモーターッてんだ。」

「モーター? モーターッたら、灌漑溝の吸い上げでねえか。えーえ、異うわ、覚おべだ振りすなよ!」――由三は負けていない。

「んだ、んだ!」端はしの方が同意した。

 ――小さい口論の渦が巻く。

 突然S村で、煙火が挙がった。

 真夏の高い青空に、気持よく二つにも、三つにもこだまをかえして、響き渡った。

「ワアッ!」

 由三達はカン声をあげて、跳ね上った。

「さ、遅れたら大変だど!」

 皆はもと来た道を走り出した。遅れたのが、途中で下駄を脱いだ。

 岸野農場の主人が、奥様と令嬢同伴で、農場見物にやって来ることになっていた。――それが今日だった。

 東京にいる、爵位のある大地主も、時々北海道へやってきて、小作人や村の人達を「家来」に仕立てて、熊狩りをやった。

 ――S村では、村長を始め※[#「┐<△」、屋号を示す記号、276-上-15]の旦那、校長などは大臣でも来たように「泡を食って」いた。


     地主、奥様、御令嬢


 自動車二台が真直ぐな村道を、砂塵を後に煙幕のようにモウモウと吹き上げながら、疾走してきた。岸野農場の入口には百十七、八人の小作が、両側に並んで待っている。町へ一日、二日の「出面でめん」を取りに行っているものも休んで出迎えた。

 暑かった。皆は何度も腰の日本手拭で顔をぬぐった。

「もう少しな、俺達の忙がしい時にな、来てもらったらええにな。」

「働いてるどこば見てければな。」

「ん、ん、んよ。」

「奥様は何んでも女の大学ば出た人だと。」

「大学?――女の? ホオ!」

「とオても偉い、立派なひとだとよ。」

「女、大学ば出る? 嘘云うな、女の大学なんてあるもんか。……まさか、馬鹿ア、女が……。」

「んだべ、何んぼ偉いたって!」

 一かたまり、一かたまり別な事を云っていた。

「な、旦那もう少し優しい人だら一生ケン命働くんだどもな。」

「働いだ事ごと無えから分らないさ。」

「今度こんだあまり急で駄目だったども、こんな時あれだな、皆で相談ば纏めて置いてよ、お願いせばよかったな。」

 阿部はみんなの云うのを聞いていた。――阿部には、今度「見物」に来るということをワザと管理人がその前の晩になって知らせた魂胆がハッキリ分っていた。二年程前、それで管理人が失敗していた。皆が普段からの不平を持ち寄って、岸野の旦那が来たとき、それを嘆願した。その事から大きな事件になりかけた事があったからだった。――で、今度は管理人に出し抜かれてしまった。

 自動車の後の埃の中をベタベタな藁草履をはいた子供達が、四五人追いかけていた。のろくなると、皆は鈴なりに後へブラ下ってしまった。――自動車は農場の入口の管理人の家の前で、ガソリンの匂いをはいて、とまった。

 袖を軽く抑えて、着物の前をつまみ、もの慣れた身腰で、ひらりと奥様が降り立った。

「まア、とてもひどい自動車なこと!」――上品に眉だけをひそめた。

 続いて、一文字を手にして、当の主人が白絣に絽の羽織で、高い背をあらわした。その後からクリーム色の洋装した令嬢が降りた。後の自動車には、出迎えに行った村長、校長、管理人、それにH町の警察署長が乗っていた。

 小作達は思い、思いに腰をかがめて挨拶した。

「ハ、まア、よオく御無事様で……」

 佐々爺は手拭で顔をゴシゴシこすりながら、何べんも頭を下げた。もう身体中酒でプンプン匂っていた。人集りに出るときは、佐々爺は何時でも酒をやらないと、ものが云えない癖があった。

「お前達も達者で何よりだ。――ま、一生ケン命やってくれ。」

 皆は一言、一言に小腰をかがめた。佐々爺は、小さい赭あから顔を握り拳のようにクシャ、クシャにしながら追従笑いをした。

「本当に、ご苦労ね。」

 奥様は広々とした田を見渡すと、軽く息を吸い込んだ。

 小作の女房や娘達は、ただ奥様と令嬢だけに見とれていた。後にゾロゾロついて行きながら、着ているものが何かお互いに云い合った。が、北海道の奥地にいる小作の女達には、見たことも、触ったこともないものだった。柄のことでも同じだった。古くさい、ボロボロな婦人雑誌の写真でだけしか、そういう人のことは知っていなかった。――然し、何より「自分達の奥様」がこんなに立派な人だということが、皆の肩幅を広くさせた。

「馬鹿、お前からして見とれる奴があるか!」

 伴が自分の女房の後を突いた。

 岸野は畔道にしゃがんで、

「どうだい、今年は?」と、稲の穂をいじりながら、吉本管理人にきいた。――昔の地主などとちがって、岸野は田畑の事には縁が遠く、ただ年幾らの小作料が手に入るしか知っていなかった。

「ええまア並です。二番草の頃は、とてもよかったんですが、今月の始め頃にかけて虫が出ましてね。殊に去年は全部駄目と来ているから、今年はどんなに良くても小作はつらいんです。――余程疲弊してるんで……。」

「ん……で、どうだい様子は……?」

「え、今のところは……矢張り秋になってみないと。」

 ――お互いに声が低くなっていた。

「気をつけて貰わないとな。」

「それア、もう!」

「ん。」

 岸野は正直に云って、時々後から不意に田の中へ突きのめされはしないか、という脅迫めいた恐怖を感じていた。何かの拍子に、何度も何度もギョッとした。一町も行かないうちに、汗をびっしょりかいていた。然し表面だけの威厳は持っていなければならなかった。

「この前のように、嘆願書をブッつける事はないだろうな。」

「その点こそ、今度は大丈夫ぬかりませんでした。」

「ん。」それで安心した。――然し後の方は口に出しては云わなかった。そして鷹揚にうなずいて見せた。持っていた穂を田の中に投げると、小さい波紋の輪が稲の茎に切られながら、重なり合って広がって行った。

「ね、お百姓さんって、何時でもこの水の中に入って働くのねえ!」

「そうで御座います、お嬢さん。」

 二つ三つ田を越したところで、丁度同じ年位の娘が頬かぶりの上に笠をかぶり、「もんぺい」をはいて、膝ッ切り埋って働いているのが見えた。顔に泥がハジけると、そのまま袖でぬぐっている。

「あれじゃ足も手も――身体も大変ね!」

「えええ、その何んでもないんで御座います。」――追従笑いをした。

「あたし学校の参考に稲を二、三本戴いて行きたいんですけれど……」

 女房達が争って稲を取りにかかった。――吉本管理人は、これアうまい、と思った。

「矢張り何んてたって、大したもんだ。」

 女房達は小腰をかがめながら、稲を差出した。令嬢は、「有難う。」と云いながら、フト差出された女達の手を見た。手? だが、それは手だろうか!――令嬢は「ま!」と云って、思わず手の甲で口を抑えた。

 一通り田畑を見てしまうと、「いとも」満足の態ていで、一行は管理人の家へ引き上げた。


     「伴さん」


 晩には小作人全部に「一杯」が出るので、皆はホクホクし乍ら二三人ずつ、二三人ずつ帰って行った。

「なア、えッ阿部君! 汗が出たアど。」

 伴がガラガラ声で、百姓らしくなくブッキラ棒に云った。

 阿部は何時ものように黙って笑った。健はこわばった顔で、少し後れてついて行った。それに伴や阿部付の人達が四五人一緒だった。――後から来る人達は、地主や奥様達のことを声高に噂し合っていた。

「あいつ等の着ているペラペラした着物なんて、俺達がみんな着せてやってるんだ位、もう分ってもええ頃だな。」

 前を歩いていた小作が振りかえった。

「伴さんにかかると、かなわないね。」

 伴もそれと一緒にウハハハハハと大声を出して笑った。

 伴は何んでもズバズバ云ってのける癖があるので、地主から一番「にらまれ」ていた。管理人が遠廻しに、小作権を坪幾何の割で買取ってもいいとよく云ってくる。――何時でも態ていのいい追い出しを受けていた。が、反対に少しおとなしくしてくれれば、「管理人」にしてやるがという交渉もあった。が、その度に伴のあたりかまわない「ウハハハハハ」に気をのまれて帰って行った。

「な、ええオ――イ、勝見さんよ、ボヤ、ボヤしてると、キンタマの毛ッこひん抜かれてしまうべよ。」

 大きな声で前のに云うと、又ウハハハハハと笑った。

「ハハハハハハハハ。」――向うでも笑っている。

 黙っていた阿部が、「伴さん、晩に管理さんのとこさ行ぐ時、一寸寄ってけねか?」と云った。

「ん、ん。」

 伴は着物をまくって棒杭のような日焼けした、毛むじゃらの脛を出して、足をいたずらにブラブラさせたり、石を蹴ったりして歩いていた。


     「のべ源」


「どうだ、健ちゃ。」後からのッぽの「のべ源」が声をかけた。

「あのどっちでもええ、一晩抱いて寝たらな。」

「何んだ、お前今迄かかって、そったら事考えていたのか。」

 健は、初めて、ムカッムカッと云った。

「それんか他にあるか。」ニタニタ笑った。

 のッぽの「のべ源」をS村の小作達は、時々山を下りて来る「熊」よりも恐ろしがっている。飲んだら「どんな事」でも平気でした。馬鹿力を出すので、どの小作だってかなわない。「のべ源」の乱暴をとめようとして、五、六人泥田に投げ込まれてしまった事がある。それに女に悪戯した。

 酔いがさめると、手拭で頭をしばって、一日中寝た。

「俺ア何アんもしねえど。俺ア――俺だけア何んもしねえど!」

 きまって、そう云いながら唸り続けた。

 健とは不思議に気が合った。――毎日の単調さ、つらい仕事、それで何処迄行っても身体の浮かない暮しをさせられていれば、誰だって若い男は「のべ源」になる。ならずにいられるものでない。皆、心の隅ッこに「のべ源」の少しずつを持っているんだ。健はそう考え、「のべ源」には他の人のような悪意は感じていなかった。――どの村にも、実際ぐうだらはいたし、居る筈だった。

 ――然し、何時迄グウだらを繰り返えしたって、どうなるものか、健は此頃はそう思ってきていた。グウだらが悪いんじゃない、グウだらにさせるものがある。それを誰も知っていない、そう思った。

「な、ま、ええさ。今晩飲めるんだ。」

「源、酒の……」

「のべ源」は、分ったよ、分ったよ、という風に頭を振った。伴は「どうしたい。」と、ひやかした。

「模範青年さんにかかるとネ。」頭をかいて、眼を細くした。

「模範青年ッて誰だ※(感嘆符疑問符、1-8-78)」

 健は不機嫌に云うと、そのまま黙ってしまった。

 阿部は口の中だけで笑っていた。


     「野にいる羊」


 女達は酒盛の用意のため、三時から管理人のところへ出掛けて行った。嫁取りだとか、法事だとか、何かのお祝いだとか、そういう事だと、お恵達は誘い合って、喜んで出掛けた。――管理人の家の炊事煙突が、めずらしくムクムク煙をはいていた。裏口から襷をかけて、太い腕をまくり出した女達がザルを抱えたり、葱をもったり忙がしく出入りした。

 令嬢は、軽い頭痛を覚えていた。――汽車の窓から見たり、色々な小説を読んだりして、何か牧歌的な、うっとりするような甘い、美しさで想像していたチョコレート色の藁屋根の百姓家! それが然しどうだろう。令嬢は二三軒小屋をのぞいてみた。――真暗な家の中からは、馬糞や藁の腐った匂いがムッと来た。暗がりから、ワア――ンと飛び上った金蠅の群が、いきなり令嬢の顔に豆粒のように、打ツかった。令嬢は「アッ!」と声をたてた。腹だけが大きくふくれて、眼のギョロッとした子供が、炉の中の灰あくを手づかみにして、口へ持って行っていた。上り端に喰いかけの茶碗と、塩鱒の残っている皿が置きッ放しになって居り、それに蠅が黒々と集たかっていた。隅ッこに、そのままに積み重ねてある夜具蒲団の上から、鶏がコクッ、コクッと四囲を見廻わしながら下りて来た。……管理人のところへ帰ってから、濡らしたハンカチを額にあて、令嬢はしばらく横になった。

 夜になると、「ランプ」がついた。令嬢は本当のランプを見るのが始めてだった。都会のまばゆい電燈になれた眼には暗い。まるで暗い。然しランプの醸し出す雰囲気は、始めて令嬢を喜ばせた。

「素敵だわ!」

 小樽や東京にいる友達に、絵ハガキで是非ランプのことは云ってやらなければならないと思った。

 日が暮れかかると、小作人がボツボツ集ってきた。土間にムシロを敷いて、高張りの提灯を幾つも立てていた。令嬢を見ると、小作人達は坐り直して、丁寧に挨拶した。教会に通っている令嬢には、百姓は「野にいる羊」のように純真に思われた。父が経営している小樽のS工場の傲慢な職工達とは似てもつかない、と思った。


     「それだけ、それだけで終ってしまった」


 武田が仲間の二三人と一緒に、少し早目にやって来た。岸野に会って、普段から種々お世話になっている幾分もの御恩報じとして、この機会に自分達で角力すもう大会を開いて御覧に入れたいと思っている、と云った。岸野は滅多になく、顔形をくずして喜んだ。

 岸野は上機嫌だった。――庭先の、少し高い所に立って、小作に向って簡単な「訓示」を与えた。そしてすぐ奥に入ってしまった。吉本が是非そうしなければならないと云ってあった。

「で、順々に一人ずつ、奥でお会いするそうだから。」

 そう云うと、皆の中から、

「吉本さん、吉本さん!」と、中腰をあげて、伴が呼んだ。

「色々と地主さんに聞いて貰わなけアならない事もあるし、又皆に話して貰わなけアならない事もあるし、是非一つここで……。」

「それア出来ないんだ。」

 皆は急にガヤガヤ話し出した。

「ア、皆そうやっちゃ駄目だ。――静まってけれ!」

 吉本が一生ケン命制した。「今度のお出は、そんな面倒なことは一切抜きにしたものだから、それは又何時かの機会にして貰いたいんだ。――頼む!」

「そうだ、そうだ、伴さん、酒席でもあるしな。」

 小作のうちで、そう云うものもいた。

「どうだ! 健ちゃ、分るべ。」

 めずらしく阿部も興奮していた。

「一杯食わせやがったんだね。――阿部さん、会った時やったらええでしょうさ。」

「会った時? 一人と一人でか?――駄目、駄目! ちりちりばらばらだからな。」

「……………」

 健は何か不服だった。「お会い」するのは、ただ顔をみて「まア、しっかりやってくれ」というだけだった。――じゃ、その機会をつかもう、健はそう思った。

 二枚重ねた座蒲団の上に、物なれたゆるい安坐あぐらをかいて、地主が坐っているのを見ると、外で見たときとはまるで異った――岸野の存在がその部屋一杯につまって、グイと抑えつけているように感じた。――健を見ると、軽く顎だけを、それも顎の先きだけを、分らない程に動かした。

「田口健です。」吉本が取次いだ。

「ウ――これか?」

 一寸管理人を見て、それから側に坐っていた奥様と令嬢へ、「これが農場一の模範青年なんだぜ。」と云った。

「まア、しっかりやってくれ。――これからお前達が一番頼りだんだからな……。よしよし。」

 そう云って顎だけを動かした。――管理人はもう次ぎを呼んでいた。

 それだけ、それだけで終ってしまった。

 健は身体中汗をグッショリかいていた。健は阿部と顔を合わせられなかった。カアーッと逆上のぼせていた。――気おくれした、意気地のない自分を、紙ッ片れか何かのように、思いッ切り踏みにじってしまいたかった。

「のべ源」はもう酔払って、眼を据えながら、誰か相手でも欲しそうに見廻わしていた。

「健ちゃ、健ちゃ、健ッたら!」

 健は返事をしなかった。

「健よオ! 何そったら不景気な面してるんだ。」

 健はだまったまま、暗い外へ出て行った。

[#改段]


    五



     土方


 大陸的な太陽が、ムキ出しな地面をジリ、ジリ焼いていた。陽炎が白熱した炎のように、ユラユラ立って、粗雑に敷設されたトロッコのレールが、鰻のように歪んで見えた。――土の熱いムレッ返しが来る。

 土方は皆褌一つで働いていた。身体は掘りかえして行く土より赭黒く焼けて、土埃のかかった背中を、汗が幾つにも筋を引いて、流れている。鮮人は百人近くいた。

 急カーヴへ来ると、いきなりトロッコの外側が浮き上る。浮き上った片方の車輪が空廻りした。――健達は五六人藪入り前を、ここへ稼ぎに来ていた。仕事は危なかった。

 それは空知川から水を引いて、江別、石狩に至るまでの蜒々二十何里という大灌漑溝を作るための工事で、一旦それが竣成すれば、その分派線一帯にかけて、何千町歩という美田が出来上る。北海道の産米がそれで一躍鰻上りに増えるのだった。

 村長を看板にし、関係大地主が役員になって、「土功組合」を組織し、北海道庁から「補助金」や「低利資金」の融通を受ける。拓殖銀行は特別低利で「年賦償還貸付」をした。北海道拓殖のためだった。――その工事は「監獄部屋」に引受けさせる。土方を使えば、当り前一日三、四円分位の労働はたらきを五、六十銭でやる。で、頭あたまが二重にも、三重にもハネられた。

 大地主は只ロハのような金で、その金の割合の何十倍もの造田が出来た。造田さえされれば、「低利資金」位は小作料だけで、ドシドシ消却出来た。

 ――健にも分る。これだけのことを見ても、結局の背負いどころは誰か。――小作人と土方! それがハッキリ分る気がした。

「アッ!」誰か叫んだ。

 トロッコが土煙をたてながら、顛覆した。裏返えしになったトロッコの四つの車輪だけが、惰勢でガラガラと廻った。――乗っていた土方は土の下になってしまった。然し、誰もそれにかまっていない。――日雇いに行っている健達は思わず立ち止って、息を殺した。

「次のトロッコが矢張りな、見るに見兼ねて、少しグズグズしてたッけア、止っちゃいかん、止っちゃいかんッて、棒頭が怒鳴ってたど。」

 健達は今度S村附近に陸軍の演習があるので、その宿割を受けていた。

「兵隊さんだけには、白い飯まま食べさせなかったら、恥だからな。」

 母親に何度も、何度も云われて、稼ぎに出ていた。然し村から稼ぎに行っているものは、三日と続かなかった。途中でやめてしまった。

「ま、俺達途中でやめれるからええが、土方達はどうする……」

 帰り道は、身体中痛んだ。肩がはれ上って、ウミが出た。

「土方人間で無えべ。――土方と人間が喧嘩したって歌あるんだからな……。」

「佐々爺云ってたども、北海道の開拓はどうしたって土方ば使わねば出来ないんだってよ!」

「んだかな。」

「馬鹿云うもんでねえよ!」

 健はムカムカした。

「飯場さ入る時な、皆ば裸にしてよ、入口でヒー、フー、ミー、ヨーッで数えるんだ。――窓って窓は全部釘付けよ。」

 健は明日からもうやめた、と思った。――兵隊にだって、俺達と同じ黒飯を食わしたって構うもんか、要らない見栄なんてしない方がいいんだ、と思った。

 次の朝三時頃、表から仲間が呼んだ。

「俺アもうやめた。」

 行けば行けると思っていたのに、眼がさめると、身体が痛くて匍うことしか出来なくなっていた。

「何んだって※(感嘆符疑問符、1-8-78)」――母親がむっくり頭をあげた。

 健はものも云わずに又蒲団をかぶった。

「健――これ健ッ、もう二日我慢してけれ、な、もう二日!」

「続かない。身体痛えたくて、痛たくて!」

 それっ切りだまった。耐え性なく、それに眠かった。

 母親は思い切り悪く、何時迄も枕もとでクドクド云っていた。それを、うるさい、うるさいと思ってききながら、何時の間にか又眠っていた。


     「ハッ、兵隊さんだな」


 裏の畑のそばで、由三が蹲んで、

「日本勝った、日本勝った、ロシア負けたア……」

「日本勝った、日本勝った、ロシア負けたア……」

 枝切れで蟻穴をつッついていた。

「赤蟻、露助。黒蟻、日本。――この野郎、日本蟻ばやッつける積りだな。こん畜生。こん畜生!」

 ムキになって、枝の切れッぱしで突ッつき出した。

「こら、こら、――こらッ!」

 遠くで銃声がした。由三はギクッと頭を挙げた。――続いて又銃声がした。由三は枝ッ切れを投げ捨てると、いきなり表へ駈け出した。眼をムキ出して駈け出した。

「ハッ、兵隊さんだな!」


     「何するだ、稲が、稲が※(感嘆符二つ、1-8-75)」


 昼頃、宿割をきめる軍人と役場の人がやってきた。健達は「青年訓練所」から演習の見学のために、一日だけ参加しなければならなかった。――軍人と辛苦をともにして、如何どんな難事にも耐える精神を養うのだ、というのだ。危い、危い、健は然し今ではもう行く気がしていなかった。――云うことだけは立派だ。「難事に耐える!」だが、何んの難事に耐えるのか。「裏」を見ろ! いくら食えなくても、小作人はジッとしていなければならない、ということの演習ではないか!

 朝から、遠くで銃声がしていた。飛行機が高く晴れ上った空に、爆音をたてて飛んだ。向きの工合で、翼が銀色にギラギラッと光った。小作人達は所々に立ち止って、まぶしそうに額に手をかざして、空を見上げていた。――子供は夢中だった。

 健は由三にせがまれて、外へ出た。ジリ、ジリと暑かった。だまっていても、腋わきの下が気持悪くニヤニヤと汗ばんだ。由三は今ようやく出来かけている口笛を吹きながら、手にぶら下ったり、身体にからまって来たり、一人で燥いでいる。

 市街地に入ると、郵便局の前に毛並のそろった軍隊の馬が、つながっていた。小さい鞄を腰にさげた兵士が頼信紙に何か書いていた。

「ええ馬だな。――俺アの馬ど比らべてみれでア!」

 由三は馬の側を離れないで、前へ廻ったり、後へ廻ったり、蹲んで覗き込んだ。

「兄ちゃ、来年らいしん[#ルビの「らいしん」はママ]兵隊さ行けば、馬さ乗るんだべか。ええなア!」

 街にはどの家にも宿割の紙が貼らさっていた。――市街地に出ると、銃を肩にかけ、胸のボタンを二つ程外して、帽子の下にハンカチをかぶった兵隊が三人、靴底の金具をジャリジャリさせて、ゆるい歩調でやってきた。

「S村って、これですか。」――市街地を指さした。片手に地図を持っていた。

 由三が健より先きに周章あわてて答をひったくった。

「んですよ。」と云った。

 それだけで、それが由三には大した名誉なことに思われた。

 銃声は東の方から起っていた。それで基線道路から殖民区域七号線へ道を折れて入った。少し行くと、処々道に見慣れなく新らしい馬糞が落ちていた。

「あらッ! あらッ! あら、なア!」

 由三が頓狂に叫んだ。田圃たんぽを越して、遠く、騎兵の一隊が七、八騎時々見え、かくれ、行くのが見えた。――もう、由三は夢中だった。河堤に出ると、村の人達が二三十人かたまって、見物していた。由三は健の手を離れて、先きに走り出してしまった。見ていると、人の腋の下を潜り、グングン押しわけて一番前へ出てしまった。

 百人近くの兵隊が銃を組んで休んでいた。ムレた革と汗の匂いが、皆の立っている処までしていた。――日蔭になっているところには、上半身を裸にして、仰向けに寝ているものが二三人いる。どの兵士も胸の中にがっくり頭を落したり、横になったり――皆ぐったりしていた。然し顔だけは逆上せたように、妙に赤かった。それが気になった。汗が上衣まで通って、背の出張ったところ通りの形にグッショリ濡れていた。

「どうしたんだべな。」

「追ぽわれて来たんだべよ。――見れ、弱ってる!」

 不意に、あまり遠くない処で銃声がした。雑木林から吹き上げられたように、鳥の群が飛び立った。続いて銃声がした。――と、上官らしいのが列外へ出て、何か号令をかけた。ガジャガジャと金具の音が起った。が、皆はどうにもならない程、疲れ切っていた。

「グズグズしちアいかん! グズグズしちアいかん!」

 上官がカスれた声で怒鳴った。

「やっぱり兵隊って、ええものだね。――ラッパの音でもきいたら、背中がゾクゾクしてくるからな。」

 健の隣りで話している。――「青島」で右手がきかなくなってから、働くことも出来ず、半分乞食のような暮しをしている「在郷軍人」だった。

「戦争だって、考えたり、見たりする程おッかねえもんでねえんだ。ワアッて行けば、何んしろ……」

 皆に聞えるように、わざと声を高めた。

 兵隊は歩きづらい砂地を、泥人形のような無恰好さで、ザクザク歩き出した。だまりこくって、空虚に眼を前方の一定のところにすえたきり、自分のではない、何か他のものの力で歩かせられているように、歩いていた。病人を無理に立たせて、両方から肩を組み、中央まんなかにして歩かせた。が、他愛なく身体がブラ下ってしまった。頭に力がなく、歩く度にグラグラッと揺れた。

 皆はゾロゾロ堤を引き上げた。雑木林の中から、その時だった、突如カン声が上った。帽子の色のちがった別な一隊が、附剣をして「ワアッ、ワァッ!」と叫びながら、さっきの兵隊の後横へ肉迫していた。――不意を喰ってしまった。立ち直る暇もなく、そのまま隊伍を潰して、横へそれると、実りかけている田の中へ、ドタドタと入り込んでしまった。見ている間に、靴の下に稲が踏みにじられてしまった。

「あ、あッ、あ――あッ、あッ!」

 田の向うに一かたまりにかたまって見ていた小作人が、手を振りながら夢中に駈けて来るのが見えた。健達も思わず走った。――百姓達には、それは自分の子供の手足を眼の前で、ねじり取られるそのままの酷むごたらしさだった。

「何するだ!」

「何するだ! 稲※(感嘆符二つ、1-8-75) 稲※(感嘆符二つ、1-8-75)」

 然し兵隊のワアッ、ワアッという声に、それはモミ潰されてしまった。士官は分っていて、号令をやめなかった。――もう百姓は棒杭のように、つッ立ってしまうよりない!

 ようやく「休戦ラッパ」が鳴った。

 兵卒達はそれでも稲を踏まないように、跳ね跳ね田から出てきた。

 士官は汗をふきながら、プリプリして、

「後で主計が廻ってくるんだから、その時申告すれアいいんだ。」

 それは分っている! 然し損害を受けただけを申告すれば、その度に「これを種にして儲けやがるんだろう。」「日本国民として、この位の損害をワザワザ申告するなんてあるか。」と云われる。「帝国軍人のためだと云って、申告しない百姓さえあるんだぞ。」そんな事も云う。――貧乏な、人の好い小作人はどうすればいいか?――小作料を納める時になれば、地主はそんなことを考顧さえもしてくれない。

 兵士達はそれ等の話を気の毒そうに、離れてきいていた。――矢張り小作人の伜達がいるんだろう、健はそのことを考えていた。

 田を踏みにじられた隣りの農場の小作が、壊れた瀬戸物でもつなぎ合わせるように、田の中に入って行って、倒れた稲を起しにかかった。――健にはそれは見ていられなかった。


     「下稽古かも知れないど」


 兵隊の泊った朝、由三は誰よりも先きに起きた。――吃驚びっくりしたようにパッチリ眼を開けて、家の中をクルックルッと見廻わすと、ムックリ起き上ってしまった。前の日に磨いて立てかけて置いた銃や剣や背嚢の前に坐ると、独言を云いながら、ちょッぴりちょッぴりいじった。魚が餌えさでもつッつくように。

 母親が起きてきた。――母親は吃驚して、いきなり、由三の耳をひねり上げた。

「これッ! 大切なものさ手ばつけて、おがしくでもしてみれッ!」

 健は眼をさましたまま、寝床にいた。――前の夕方、健が納屋から薪を取り出していたとき、すぐ横で、井戸の水をザブザブさせながら足を洗っていた兵隊が話しているのを聞いた。

「ここの家ヒドイな……」

「うん、ま、御馳走はないな――」

「それでも……」

 あと一寸聞えなかった。息をつまらせて笑っている。

「シャンだからな。」

「それに……な、色ッぽいところがあるぞ。」

「あれか、鄙にもまれなる……」

「……埋合せか。」

 声を合わせて笑い出してしまった。

 健は暗がりの納屋の中にいて、一人でカアーッと赤くなった。

 健は昨日からのお恵の燥はしゃいだ、ソワソワした態度にムカムカしていた。

 兵隊が起きると、由三は金盥に水をとってやったり、下駄を揃えてやったり、気をきかして先きへ先きへと走り廻った。お恵は日焼けのした首に水白粉を塗っていた。塗ったあとが、そのままムラになって残っていた。

 飯はお恵が坐って給仕した。すると、由三が口を突がらした。

「兵隊さんに女めっけアなんて駄目だねえ。――俺やるから、姉どけよ!」

 兵隊は苦笑してしまった。

 母親は又昨夜のように、御馳走のないことをクドクド繰りかえした。

 昼過ぎから土砂降りになった。六時頃、兵隊は身体中を泥だらけにして帰ってきた。――ものも云えず、一寸つまずいただけで、そのまま他愛なくつんのめる程疲れ切っていた。――母親はそれを見ると、半分もう泣いていた。兵隊にとられるかも知れない健のことが直ぐ考えられた。

 その晩は最後であり、それにゆっくり出来ると云うので、健は母親に云いつかって、裏で雌鶏を一羽つぶした。※[#「┐<△」、屋号を示す記号、289-下-20]からは、「兵隊さんに出すのだから」と云って、ようやく酒を一升借りて来た。

 酔ってくると、兵隊は色々「兵営」の面白いことを話してきかせた。由三は「眠くねえわ、眠くねえわ。」と眼をこすりながら、何時迄も起きていた。

「坊、大きくなったら兵隊になるか。――ハハハハハハ。」

「僕も百姓ですよ。」と一人が云った。「僕の従弟が内地の連隊にいたとき、自分の村で小作争議が起り、それがドエライことになってしまった事があるんです。半鐘は鳴り、ドラはなり、何千人ッていう小作人が全部まア……暴動ッて云うかね、それを起したんですね。どうにもならなくなり、地主連が役所に頼み、役所が連隊に頼み、軍隊出動という処までトウトウ行ってしまったわけです。――が、何んしろその兵隊さんの親、兄弟、親類が村にいるときているし、それに自分等も村にいたとき、毎日毎日地主に苦しめられてきている。――どうにも出来ない。とても苦しかったそうですよ……。」

「ハアねえ――。」母親はワケも分らずうなずいた。

「あんまり御馳走してくれるんで、思い出したんだけれども、――御馳走するどころか、そんな風で案外これア敵かたきでないかと思ってネ。」

 と云って、大声で笑った。――「この辺はどうです。僕の村あたりだと、毎年のように小作争議が起りますよ。何処だって村は困っているし、又困って行く一方ですからね。――ネ、何時か僕等が附剣して、この村へワアッて、やって来ることでもあるんじゃないかと思ってネ……。」

「まさか!」思わず皆で笑い出した。

 後で、フトこの話を健が阿部にした。

「それア本当だよ。」と阿部が考え深そうに云った。「あんまり内地で、所々に農民騒動が起るんで、今度の演習だってその下稽古かも知れないど……。」


 次の昼頃、ラッパの音が聞えると、皆村道に出て行った。

 お恵は髪を綺麗に結い直して、由三を連れて出た。畦道を縄飛びをする時のように、小刻みに跳躍しながら走った。

 村を出て行くラッパの音は、皆を妙に興奮させた。それを聞いていると、何か胸が一杯になった。足並の揃ったザック、ザックという音と一緒に埃が立った。二日でも自分の家に泊った兵隊が通ると、手を振っている。

「あらあら、俺れアの兵隊さん!」

 眼ざとい由三が見つけると、姉の手を引張った。

 心持ちこっちへ顔を向けて――その顔が笑っている。お恵は耳まで真赤になった。そして手を挙げた。が、胸のところしかあがらない……。

 ラッパの音が遠くなった。

 そして行ってしまった。

 皆は兵隊の残して行った革の匂いと埃の中に、何時迄も立ちどまって見送っていた。――

[#改段]


    六



     「あれは口の二つあるダニだよ」


「お茶ば飲みに来ないか。旭川の人も来るし、二三人寄るべから。」

 前から伴や阿部のところに、四五人集ることのあるのは知っていた。健は始めてだった。

 仕事が終ってから、藁屑のついた着物を別なのに着かえて出掛けた。由三は独り言を云いながら、壁へ手で犬や狐の恰好の影をうつして遊んでいた。

「兄ちゃ何処さ行ぐ?――由も行ぐ。」

 出口までついて来て、駄々をこねた。

 もう秋めいている。夜空に星が水ッぽい匂いをさせて一杯にきらめいていた。実りの薄い稲の軽いサラサラした音がしていた。

 政府の「米買上げ」と不作の見越しで、米の値は「鰻上り」に上ってきている。然しその余沢の一ッこぼれさえ百姓にはこぼれて来ない。――今時米を手持ちしているのは誰だろう。百姓でだけはない。みんな一番安い十一月、十二月に俵の底をたたいてしまっている。――どんな百姓でも「米買上げ」が自分達には「クソ」にもならないことだけは知っていた。

「んでも、政府さんのする事だもの、やっぱし深い考えあるんだべよ。」と云っていた。

 健がムキになって「買上げ」をコキ下したとき、佐々爺が手に持っていた新聞[#「新聞」は底本では「新間」]をたたいて、

「え、え、え、東京新聞も碌ッた見もしねえで、何分るッて! お前えみだいた奴の、小さいドン百姓の頭で何が分るッてか。お前えより千倍も偉い、学問のある東京の人が考えて、考えて決めた事だんだ。――東京新聞ば読め! 東京新聞ば読んでからもの云うんだ。ええか!」――顔をクシャクシャにさせた。

 今年はこの後若し雨にでも降られれば「事」だった。

 阿部の家の前の暗がりで、不意に犬が吠え立った。家の中から誰か犬の名を呼んでいる。小さい窓を大きく影が横切って、すぐ入口の戸が開いた。阿部が顔を出した。

 旭川の人はまだ来ていなかった。

 八人程集っていたが、若いものは健一人だけで、皆家をもっている農場でも真面目な年輩の小作ばかりだった。それは意外だった。健は漠然と若い人達ばかりと思ってきたのだ。――然し、その人達を見ると、やっぱりこれが本当だと思わさった。太い、ガッシリした根が、眼には見えず農場の底深くに、しっかり据えられているのを感じた。

「作」のことが、やっぱり話に出ていた。

 吉本管理人は、いくら田を見せて頼んでも、決してそのまま岸野に知らせてやってはくれなかった。裏では、吉本を本名で呼ぶものはいない。「蛇吉じゃきち蛇吉」と云っている。管理人だから黙っているけれども、誰かに不幸があったとき、地主が小作人に送って寄こす「香奠」から頭を割った。自分ですっかり書き直して、それから小作のところへ香奠を持ってきた。道路や灌漑溝の修繕工事をすると云って、日雇賃を地主から出さして置いて、小作人を無償ただで働かし、それをマンマと自分のものにしてしまった。小作料の更新をするぞ、とおどかして、「坪刈り」にやってくる。然し本当は嘘で、自分の家に何百羽と飼ってある鶏や鵞鳥や七面鳥のエサにするための口実でしかなかった。

 この「蛇吉」はH町のある料理屋の白首を妾同様にして通っていた。

「地主さんより上うワ手てだ。――地主さんはそう悪くないんだ。吉本よ、あの蛇吉よ!」

 小作人のうちではそう云っている。

「あれアダニだよ。」

「口の二つあるダニだ。」――健は自分で赤くなって云った。「一つで地主の血ばとって、もう一つで小作から吸うんだ。」

「ん。」

「地主からなら吸う血があるべども……」

 健が云いかけると、みんな云わせないで、「それさ。そこさ。それが大切などこさ。」――伴がガラガラな大声をたてた。

「何かあったら、彼奴ば一番先きにヤルんだ。」


     「血書」


「健ちゃ、徴兵よかったな。大した儲けだな。」――近所の小作だった。紙縒こよりを煙管の中に通していた。「石山の信ちゃとられたものな。」

「ん、ん。可哀相なことした。」

「ところが、信ちゃ喜んでるんだとよ。――兵隊さ行ったら、毎日芋と南瓜ばかり食ってなくてもええべし、仕事だってこの百姓仕事より辛い筈もなし、んだら一層のこと行った方がええべッて……。」

「まさか……。」

「んでもよ、働き手ば抜かれてしまうべ、行えけるんだら親子みんなで行きたいッてよ。」

「ドン百姓からばかし兵隊とりやがるんだものな。一番多いそうだ。」

「嘘か本当かな。」――阿部が云った。「こんなこと聞いたど。村長が徴兵検査に行ったもののうちで、採否の分らねえようなものに、こっそり血書ばさせて、村の名誉にしようとしたって……。」

 皆一寸だまった。「へえ!」

「んかな……。」

「まさかよ。」

「俺ありそうだって思うんだ。」――阿部は何時もの癖で、自分の手の爪の先きを見ながら、隅の方でゆっくり云った。

「村長一人の考えからでもないんだ。糸をひいてる奴がいるんだ。――農村青年の思想悪化だなんて、彼奴等青くなってるんだから夢中よ。――此頃の北海タイムスや小樽新聞の農村欄ば見れ。ヤレ農村美談だ、ヤレ何々村の節婦だ、孝子だ、ヤレ何青年団の美挙だ、ヤレ何の記念事業だッて、ムキになって農村の太鼓ばたたいているんでねえか。――所が、実際の農村はどうだ。――彼奴等は死物狂いだんだ。何時迄も百姓ばジッとさせて、何時迄も勤勉に仕事ばさせて置くためには、新聞でこい、雑誌でこい、紀元節でこい、徴兵検査でこい、青年訓練所でこい、機動演習でこい、学校でこい、みんなその目当てのためにドンドン使ってしまうんだ。仲々それも一寸見は分らないようにやるんだから危いんだ。――水も洩らさない。何んにも知らない百姓は、んだからウマウマと、そのからくりに引懸かってしまうんだ。」

「面倒だて!」――伴は日焼けした顔を大げさにしかめた。「仲々な!」

「はがゆくてもよ、豆粒みたいによ、俺達のどこさよ、一人一人よ、殖やして来るんだな。」

「何アんでも一人じゃ脆いもんじゃ。」――畑か田のことより知らない、歯の抜けている四号の茂さんが(!)そんな事を云う。


     農民組合の荒川さん


 表で犬が吠えた。

「荒川さんだべ。」――阿部が立って行った。

「や、失敬失敬。」

 そう云って、ズックの鞄をドサリと投げ出した。痩形の、少し左の肩が怒っている二十二三の人だった。髪を長くしていた。

「ご苦労さまでしたな。」

「イヤ、イヤ。」

 荒川は上ってくると、「ヤア。」と云って、元気よく皆に頭を下げた。そして真黒に汚れた手巾で、顔から首をゴシゴシこすった。

「作は悪いね。――今年はこれア大したことになるね。」

「岸野さんがドウ出るか……。」

「どう出るかって?――」

 後あとは笑談のように笑いながら、

「そんなこと岸野の農場で十年も小作をしていれば、もう分ってもいい頃だろう――なア!」

 皆笑ってしまった。

 聞き易いテキパキした調子で、時々笑わせながら、色々のことを話してくれた。

 ――秋田には「青田を売る」ということがある。それは新らしい小作戦術で、立毛差押や立入禁止など喰らいそうに思うと、小作人が先手を打って、夏頃に、出穂を予想して、青田のうちに商人に売ってしまうのだった。金にして持ってしまえば、こっちのものだった。――どうだい、やってみないか、と荒川が笑談のように云った。

 近辺の農村を廻って歩いていると、農村の生活水準がだんだん下って行くのが分る。益※(二の字点、1-2-22)下がって行く。いくら村長や警察署長が「農村の美風」をかついで、ムキになったって、食えなくなれば、どうしても地主様に「手向い」しなければならなくなる。

 それに、こうなって来ると、困るのは水呑み百姓ばかりでなしに、なまじッか十町、二十町歩位の田畑を持っている「地主」で、反当りで計算してみても、灌漑費、排水費、反別割、其他の税金、生活費用を見積ると、そこから上る六、七斗の小作料では引き合わなくなってきていた。――田に修繕を加えて、少しでも上り高を多くしようとすれば、どうしてもそれを拓殖銀行へ抵当に入れて「年賦償還」の貸付けを受けなければならない。だが、そうすれば、今度は益※(二の字点、1-2-22)引き合わなくなる。大地主の存在がジリジリと圧迫していた。小作人より苦しんでいた。その癖、俺は地主様だという気持を、どうしても無くしない。どんなにヒッつぶれても、小作人達と同じ人間にされてたまるもんか、そう思っている。

 健の家と川を隔てて向い合っている越後から移転してきている広瀬がそれだった。――首がギリギリに廻らなくなっているのに、土地も自分のものでなくなっているのに、自分の子供が由三達と遊ぶことを嫌った。――「なんぼ成り下がったって……。」

 荒川は硫黄分でインキのように真黒になっているお茶を飲みながら、内地の農民の話をした。――内地では、小作争議で「ドンツキ」をやる。小作人が地主を無理矢理ひっぱってきて、逆さにつるして灌漑溝の水につけたり、上げたりやる。然し北海道のように、小作と一緒に村に住んでいる地主がいないので、「残念ながら、ドンツキは出来ない。」

「若しか岸野ばしたら、どうだべ。」――一人がいたずらに云った。

「岸野か、そうだな……。」

「そんな手荒なこと、なんぼ岸野さんだってな……。」

 荒川はだまってきいていた。

「あれだら、仲々我ん張るど。」

「あの面つらだものな!」

「そんな事……馬鹿だな……。」

「なんぼ岸野だって、こっちは兎に角人数は多いんだからな。」

「ハハハハハ、今度いくらでも実験できる時来るさ。」

 荒川は愉快に笑った。

 荒川は何時でも警察に尾行あとをつけられたり、何回も刑務所へブチ込まれたりしながら、この方の運動をしていた。――健もそれは聞いていた。然し、どうしてこんなに呑気そうに、愉快でいることが出来るんだろう。――健にはそれは分らなかった。

 ロシア革命前と後とで、ロシアの百姓はどういう風に変ったか、それが百姓本来の要求にどんなにピッたり合ったか。――そういう話をきくと、自分達が実際にやっている生活のことで、しかも誰もがそれと気付かなかったことが、ハッキリしてきた。

 次の朝は早いし、家が遠いので、健は中座した。

「小便たまった。」

 阿部がついでに外へ立った。

「阿部さん、俺も一生ケン命やるから、何か用でも出来たら、させてけないか。」

 健は興奮を抑え、抑え、阿部の顔を見ないで云った。――たったそれだけのことで、健は言葉が顫えそうでならなかった。

「そうか、そうか! 頼む!」

 上気した頬に、冷えた夜気が心よかった。――秋だった。歩きながら、彼は何か声を出したかった。

「待ってろ、待ってろ、俺だって!」

 何度も独言した。


     やもめの「勝」


 道路を折れると、やもめの「勝」の家だった。長い雨風で、ボロボロに腐れ切ったヨロヨロの藁小屋で、風が強いと危いので、丸太二三本を家の後へ支え棒にしていた。――四五年前に夫に死なれてから、一人で稼いでいた。それから一年に一人ずつ、お互いに少しも顔の似ていない子供を三人生んだ。誰が父親か分らなかった。――色々な男がこっそり勝の家へやってきた。勝はそれで暮しを立てていた。――村の娘等は少し年頃になると、(例えばキヌなどのように)札幌、小樽へ出て行ってしまう。自分の母親達のように、泥まみれになって、割の悪い百姓仕事をし、年を老とる気にはなれない。それで村の若い男は幾つになっても、仲々嫁は貰えなかった。と云って、又金を懐にしてワザワザH町まで出掛けて行くことの出来ないものは、日が暮れると、勝のところへやってきた。

 ひょいと見ると、勝の家から誰か男が出てきた。出口の幅だけの光を身体の半面にうけて、それがこっちから見えた。――武田だ! 偉いこと云って!――健は武田のそういう処を見たのが愉快でたまらなかった。

 今に見ろ、畜生!

[#改段]


    七



     七之助の手紙


 畑から帰ってくると、母親がプリプリ怒っている。

「見れでよ。切手不足だって、無ねえ金ば六銭もふんだくられた。」

 手紙は七之助から来ていた。――健は泥足も洗わずに、炉辺へずッて行って、横になりながら封を切った。


 朝五時に起きて、六時には工場に行っている。油でヒンやりする、形の無くなった帽子をかぶり、背中を円るくし、弁当をブラ下げて出掛けて行く。俺の前や後にも、やっぱりそういう連中が元気のない恰好で急いで行く。――工場では、ボヤボヤしていられない。朝の六時から晩の五時迄、弓の弦のように心を張っていなければならない。

 俺が来てから、仲間の若い男が二人機械の中にペロペロとのまれてしまった。ローラーからは、人間が大巾の雑巾のような挽き肉になって出てきた。一人の方の女房は、それから淫売をやって、子供を育てているという評判をきいた。もう一人は青森の小作の三男だそうだ。背がゾッとする。

 工場は大きな機械の廻る音で、グヮングヮンしている。始めの一週間は家へ帰っても、耳も頭もグヮングヮンして、身体がユキユキし、新聞一枚読めなかったものだ。――俺はこのまま馬鹿になってしまうんではないか、と思った。今は慣れた。

 此前キヌと会った。キヌは岸野の経営している「ホテル」にいる。――岸野は雑穀、海産、肥料問屋、ホテル、××工場、精米株式会社を経営し、取引所会員、拓殖銀行其他の株主、商業会議所議員、市会議員をやっている。他に何千町歩という農場や牧場も持っているわけだ。

 岸野が売り残して年を越したために、検査に落ちて、どうにもならなくなった鰊粕を、俺達の農場の方へ送り込んで寄こして、それを検査品と同じ値段で売っていることは、知っている筈だ。然しあの岸野にしたら、こんな事ものの数でもない。

 キヌが云っていたが、ホテルには二十人近く女給がいる。――岸野が一週間に二度位廻って行くと、必ず自分の室から女給を呼ぶ。そして肩をもませた。皆は自分に順番のくるのをどうすることも出来ず、ただ待っているばかりだ。嫌なら出て行け、然し出て行ける「金の持っている」女なら、最初からそんな処に来る筈がない。みんな家の暮しのために、村から出てきた、云わば俺達と同じ仲間なのだ。――中には、落着いて髪を直しながら、ドアーから出てくるものもある。然し大抵外へ出るなり、ワッと泣き出してしまう。見ていられないそうだ。岸野は来る度にキマッてそうした。

 岸野が一体どんな事をしているのか、百姓達は、ちっとも知っていない。――ここに来て、それが始めて分った。阿部さんに紹介されて来た人達は、ここで労働問題などを研究している。俺は何も分らなかったが、すすめられて出ている。出てよかった。俺は色々のことをそこで知った。

 百姓のことでは、特別に皆から聞いた。百姓というものは、今のこの世の中では何処迄行っても、――行けば行くほど惨めになるものだ、という事を知った。

 仮りに百姓が自分の田畑を持っていて、小作料を払うことも要らず、必要なものは全部自分の家でこしらえ、物を売ることも、買うこともなかったら、それは幸福かも知れない。――然しこんな処が世界の何処を探がしたって、無いこと位は分りきったことだ。

 都会にいればよく分ることだが、大工場では生活に必要な品物をドンドン作り出している。それが大洪水のように農村を目がけて、その隅々も洩らさずに流れ込んで行く。そうなって来れば、もう土間にランプを下して、縄を編んだり、着物を織ったりしていたって間に合わなくなってしまう。追ッ付くものでない。――北海道では何処だって、出稼ぎは別にして、冬の内職などするものがなくなってしまっているではないか。

 百姓は、だからどんなものでも買わなければならなくなる。――で、要るものは金だ。百姓が金を手に入れる道はたった一つしかない。出来上ったものを売ることだ。――ところが、世界中で一番ものを下手糞に売るものは百姓だ。

 健ちゃも知っているだろうが、村で都会の商品市場がどう変化しているか、又こう変化しそうだから売るとか、売らないとか、秋にそんなことを考えて売ったりする百姓が一人でもいるか。どうして、どうしてだ。

 三年前に、青豌豆の値が天井知らずに飛び上ったことがある。知ってるな。和蘭オランダが不作のために、倫敦ロンドンから大口の注文があったからだ、とあの時皆は云っていたさ。ところが、今度小樽へ出て聞いてみると、そうでないんだ。その事もあるにはあった、が小樽の大問屋で、大貿易商である※[#「┐<辰」、屋号を示す記号、299-下-4]が、高く売り飛ばすために、買い集めてしまってから、そう宣伝したそうだ。――山の方の百姓はそんな事は知るもんでない。

 次の年、どの百姓も皆青豌豆、青豌豆と青豌豆を作ったものだ。そして一年の丹精をして、大成金を夢見て、さて秋が来たときどうだ! ガラ落ち!――和蘭が大豊作だと云う。然し本当はそれも七分の嘘。落すにいいだけ落して、安く安く買い集めたのは大問屋だった。そのカラクリは仲々分るものでない。――首を縊った百姓、夜逃げした百姓が何人あの年いたか。都会が凡ての支配権を握っているのだ。

 こういう世界へ百姓が首をつん出して、うまく行く筈がない。山の中にいて、市場の景況もあったものでない。工場などでは、昨日原料を仕入れば、明日にはもう売り出せるように品物が出来上る。それが一年中切れ間もなしに続けられるし、売れ工合によっては、自由に出来高の加減もその日その日のうちに出来る。ところが百姓はどうだ。――原料を一回仕入れて、その第一回目の品物が出来上る迄に一年! この融通のきかなさ! これだけでも分る。

 工場に入って驚いたけれども「機械」だ。仮りに一人の男が毎日毎晩働いて、一年もかかる位の分量の仕事を一日位でしてしまう。――そんな機械でばかり工場が出来上っている。俺達はただ機械のそばについていて、手だけ動かしていればそれでいい。ところが、その眼で農村を見れば、まるで居眠りでもしたくなる程のんびりと昔風でないか!――追い付けるものでない。

 都会にいる地主でも、そんなワケで、地主だけではとても眼まぐるしいこの社会に、太刀打ちが出来て行かない。地主でも。で、百姓からは出来るだけ沢山の小作料を搾ればいいという風に、放ッたらかして置いて、ドンドン別な仕事をやっている。――丁度、岸野のようにだ。だから、例えて云えば「人魚」のようなものだろう。

 上半分だけは「地主」だが、下の半分は「資本家」になっている。ところが、下の部分の資本家の方が、ドンドン上の地主の部分を侵して行く傾向だそうだ。――だから、今時の地主は地主自身、小作人が可哀相だとか、もう少しこの社会に当てはまるように改良してやりたいとか、そんな事に少しでもかまっていられない。逆に自分の方がおかしくなる。小作からは取れるだけ取ったら得、皆そう思っている。

 もう小作人は地主様を当てにして、何んとかして下さるだろう、と待っていたら、百年経ったって待ちぼうけを食うのが落ちだ。研究会の人が農村について云った。今のこの世の中の組織――しくみが変らない以上、どんな事をしても農民は駄目になって行く。勿論この忙がしい都会の制度に当てはまるように直して行くこと、例えば百姓がチリヂリ、バラバラに仕事をすると、どうしたってヒドイ目に会うから、まア協同組合、協同耕作、協同経営そんなものでも作って、中に入る猾るい商人に儲けさせない方法もある、然しそれも程度もので、ウマク行く筈がない。――だから、何んと云ったって、ドンドン小作争議をやって、小作人の生活を向上させて行くことだ。これより無い。――要するに、ロシアのように労働者と百姓だけで国を治めて行かない限り、どうしてもウマク行かない。――皆この意見だ。云われて見れば、どれもこれも胸へピンピン来るではないか。

 農村に一国の政治、経済の中心地があったことがあるか。享楽、外交、流行、芸術の中心地であったことがあるか、――考えるさえコッケイだ。昔五つか六つでしかなかった「都会」が短い間にどんなに急激に殖えたか。――人口から云っても、もう半分以上は都会に集ってしまっている。これだけ見ても分る。然し「都会」と「農村」は何処まで行っても敵、味方ではないのだ。ただ、今の世の中のしくみがそうさせているので、で、そのように見えているだけだ。

 岸野のことでは面白く話してくれた。――仮りにS村から年五千円上がるとすると、彼奴はそれをまず拓殖銀行に預金する。(一番上品に、知らん振りをしているが、「銀行」というものこそ、百姓の咽喉をしめる親方の総元締であることを見ている百姓が一人でもいるか!)――すると、その金は拓殖銀行から、又農業資金として、年賦貸付になって出て行く。それを直接借りるのは自作農か※[#「┐<△」、屋号を示す記号、301-上-12]のようなものだ。※[#「┐<△」、屋号を示す記号、201-上-13]が時々H町へ行くのは何んのためだか、知っているか。あれは銀行から、年一割位で金を借りて、それを今度は困っている小作に、月三分か四分で貸してやるためなのだ。――だから※[#「┐<△」、屋号を示す記号、201-上-16」]は他人ひとの金を右から左へ持って行っただけで、三分にして年三割六分、全く無償ただで二割六分(二割六分!)も儲けているのだ。――その金が、先きにS村から小作料として取り上げた金であってみれば、同じ小作は同じ金で、二回も搾り上げられていることになる。

 岸野はその外に拓殖銀行から株の配当金を受取る。その金が矢張り、何処からでもない、農村から掻き集めて来た金でないか。三重! 又、その金の一部は(例えば)俺達の工場に投資されて、俺達をしこたまコキ使って、それをS村にウンと高く売りつけたとしたら、其処で又同じことが起る。これで一体、同じ小作人は何重に搾り上げられることになるのだ。――彼奴等の仕事はみんなこういうように関連があるのだ。

 それに、このウマイ事を何時迄もウマク出来るように、岸野は商業会議所の議員になったり、市会議員になったりする。イザとなれば警察とも道庁とも、すっかりウマク行く。その職責を持っていれば、又それを使って、逆に、自分の仕事に都合のいい事が出来る。

 仮りにS村がどうも思わしくなくなった、とする。そうすれば、岸野は自分の党派の議員をケシ立てて、S村に鉄道をひかせる。停車場をつける。そうすれば、附近の地価が上る。宅地にしてしまえば、収入では大したちがいだ。――まず、こんな工合だ。

 百姓はまだまだ色々こういう事が分っていない。

 まだまだ分らないだろう。然しな、健ちゃ、どんなに難しくても、長くかかっても、俺達が一番先きに立って、やって行かなければ、誰もやって行くものはないのだ。――阿部さんからの話だと、村にも旭川の農民組合から人が来て、会をやってるそうだ。健ちゃも出るようにして、お互いに呼びあってしていたら、どんなによいかと思う。

 キヌは村へ帰るようなことを云っていた。よく分らないが、帰らなければならなくなるだろう、と云っていた。――よく話をきいてみれば、あれだって可哀相なものだ。あれが悪いばかりでない。百姓の生活だよ。これから村がダンダン底へ落ちこんで行くと、キヌのような女は、殖えらさる一方だ。

 健ちゃのことはよく聞きたがるが、節のこともあるらしいので、知らせていない。

「小樽」と「S村」――上ッ面から見ただけでも、前に云ったことがハッキリ分る。――製缶工場、拓殖ビルディング、一流銀行、××工場、運河、倉庫、公園、大邸宅、自動車、汽船、高架桟橋コール・ピーヤー……それ等が、まるで大きな渦巻のように凄じく入り乱れ、喚いている。その雑沓する街を歩いていると、世界の何処に、あの泥だらけの、腰のゆがんだ百姓というものがいるか、と思わせられる。草、山、稲、川、肥料、――これだけが農村だ!――だが、小樽の人は本当の百姓を眼の前で見たことが、一度だって無いかも知れない。

 又書く。

 ただ俺達は何時迄も「百姓」「百姓」ッて誤魔化されていないことだ。――これだけが大切なことだ。みんなに、よろしく。


 こんな意味のことが書かれていた。――健は飯を食いながら、丁寧にそれをもう一度読み直した。それから、それを持って阿部のところへ出掛けて行った。

[#改段]


    八



     「百姓嫌になった」


 雨が二週間以上も続いた。

 初め硝子の管のように太い雨が降った。雷が時々裂けるような音をたてた。――何時も薄暗い家の隅までが、雨明りで明るく見えた。

 それが上らず、そのまま長雨になってしまった。皆が当にしていた雲の切れ目も無くなって、飽き飽きする程同じ調子で、三日も四日も続いた。五日目になると、小作はあわて出した。居ても立っても居られない。どこの家でも百姓が軒下に立って、グジョグジョに腐りかけて、水浸りになっている外を見ていた。

「何んて百姓って可哀相なもんだべな。」

 佐々爺は東京新聞にも読み飽きてしまった。若いものの邪魔になりながら、ゴロゴロしていた。――「可哀相に、手も足も出ない。――はがゆくって!」

 稲が実を結びかけていた大切な時を、雨は二十日間降ってしまった。所々ボツンボツンと散らばっている小作の家は、置き捨てにされた塵芥箱のように意気地なく――気抜けしてしまった。

 一回仕入れた原料が出来上る迄に一年かかる。――七之助はそれに驚いた。然し、それどころか! その一年目にようやく出来上るものさえ、こうではないか。――これじゃ、あのめまぐるしい都会の色々な産業や工業から時代おくれになって、農村が首をしめられ、落ち込んで行くのは分りきったことだ。

「百姓嫌えやになった。」――健は集ってきた友達に云った。

 仕方がなくなると、紙に線をひいて、皆で軍人将棋をやった。――母親は、風呂敷のように皺ッぽい、たるんだ乳房を赤子の口にふくませながら、小さい切り窓から雨の外を、うつろに見ていた。こめかみを抑えて、「あ――あ、雨の音ば聞いてれば頭痛くなる。」

「S村の小作が、身欠鰊みたいに、ズラリ並んで首でもつる時来るべ。んだら見物みものだ。」

 然し誰も笑えもしない。

 五、六人で傘をさして、近所の田を見に出た。誰かがついでに「蛇吉」に寄ってみようと云った。何とか話して置けば、工合がいいことがあるかも知れない。――ワザワザなら、誰がこったら管理人のどこさ来るッて、皆そう思っている。

 吉本は坐ったまま障子をあけて、黄色ッぽくムクンだ大きな顔を出した。小作達だと分ると、瞬間イヤな顔をした。

「何んだな。」

(猫撫で声だぞ!)

「ハ、別に……。」

 お客がいた。――H町の警察署長だった。健達はそれと分ると、理由なく尻ごみを感じた。然し吉本の方が何か周章てたように、

「用事か? 今こっち、一寸……。後で駄目かな。」

「イヤ、その、この雨だもんで、ハ、そのオ、田ば見てきました……。」

「ん――、今度のでは考えてる。――後にしてけれ。」

「あまり作がヒドイので、予め岸野さんの方へ、一つ……」

 健が云いかけたのを、ウルサそうに、

「ん、ん、ん!」と抑えてしまった。「お前等の指図でやるんでないんだ。分ってる。」

 警察署長と管理人!――何かあるな、健は帰りながら気になった。――S村では、まだ時々駐在所の巡査や校長へ、芋や大根や鶏を「初物はつもの」だと云うので、持ってゆく。所が、その偉い旦那さん達が、裏では村の金持や有力者と、ちアんと結びついている。そんな事を、然し健がどんなに小作に話してやっても、分りッこがなかった。

 夜になると、近しくしている小作が、よく二三人ずつ落ち合った。――「一人で家にいたら、気が馬鹿になる。」

「どうしたら、ええべな。」

「岸野さんどう出るかな……。」

 不貞腐れて、時々酒に酔払ってくる小作も出来た。――辻褄の合わないことを、一人で恐ろしく雄弁にしゃべった。


     「ああいうのば犬ッて云うんだ」


 三井の砂川炭山へ、馬を持ってトロ引きに出ていたもの、H町の道路普しんに行っていたもの、灌漑溝の土方へ日雇に行っていたもの、山林の夏出しに馬をやはり持って行っていたもの……それ等が九月中旬なか過ぎると、みんな帰ってきた。

 実が黒く腐っていても、穫入れて「米」にしなければならない。それから一ヵ月位の間、小作は朝三時頃から夜の七時、八時頃迄働き通した。――収穫は「五割」減っていた。

 五割! では小作は一体何のために働いたんだ。

 健は稲のいがらッぽい埃で、身体をだるまにしながら、「やめた、やめた!」カッとして、そのまま仕事を放り出して、上り端に腰を下してしまった。

「恵、少し踏め!」

 お恵は兄の剣幕を見ると、イヤイヤ立ち上った。――台所にいた母親は黙っていた。

「半分だ。――ええもんだな。一年働いて半分しか穫れなかったら、丁度小作料だべ。岸野さそのままそっくりやっても足りねえ位だ。――百姓がよ一年働いたら、一升位な、たった一升位気ままに自分の口さ入れたって、罰も当るめえ……。」

「昨年もああだし、岸野さんも何に云い出すか分らねえべ。」

 母親は鼻をぐじらせた。――「お前どころでねえ、五十何年もよくやってきたもんだて、百姓ば!」

「何時かええぐなるべ、今度こそええぐなるべッてな。――んで、最後に、お気の毒様でしたか、ええもんだ!」

 母親は黙って、鼻をぐじらせた。

 田から上った稲を一粒一粒の米にする。ところが、その米が残らずそのまま岸野に持って行かれてしまう。――それがハッキリ分っている。分っていて、その米を一生ケン命籾にして、殻をとり、搗いて白米にしている。何んて百姓はお人好しの馬鹿者だ!

 武田がひょっこり顔を出した。

「精出るなア。」

「何によ。――見れ、この籾もみ。」――母は筵むしろの上にたまった籾を掌でザラザラやって見せた。――

「今、謀叛でも起したくなったッて話してたとこだ。」

 武田はとってつけたように、大きな声で笑った。

「な、健ちゃ、少し相談したいことがあるんだが、仕事終ってからでも、俺の家さ寄ってけねえかな。」

 健はだまっていた。

「今度の不作で、なんだか騒ぎでも起りそうでよ。村の不名誉でもあるし、相互扶助会としても工合が悪いし……」

「君のとこ幾なんぼとれた。」――健は冷たく、別なことを云った。

「ようやく半作よ。」

「小作料納めたら、どうなる?」

「ン――。食うもの無くなるよ。んでも、そこばさ、何んとかウマクやって行くことば考えたらッて思うんだ。」

 吉本にでも頼まれて来たな、と健は思った。

 健は皮肉に云った。――「伴さんがこんな事云ってたが、本当かな。来年の春、H町の議員選挙で岸野さんが出るから、地盤ば荒されないように、今年だけは小作人ば誤魔化した方がええッて蛇吉が云ってるッて、ええ? 俺達食うか、食えないことば、そんなことでどうにも都合するんだナ!」

「…………」武田はだまった。「まさか。」

 武田は話を別な方にそらして、帰って行った。撥の悪さをかくすように、暗い表で、

「明日も天気だ。」

 と云うのが聞えた。

「ああいうのば、犬ッて云うんだ。」――畜生犬!

 ――他の農場では小作料を下げたとか、下げるとか、そんな噂がすぐ岸野農場にも入ってきて、その度に皆をアヤフヤに動かした。

 常任の交渉委員、伴、佐々爺、武田が吉本管理人のところへ何度も足を使った。

「蛇吉の野郎、こんなに事情が分ってて、それで一から十、岸野の肩ば持ちやがるんだ。――今中さはさまって、野郎ジタバタしてる!」

 帰りに健のところへ寄ると、佐々爺、武田の前で、伴がズバズバ云った。

 もう岸野の返事だけだった。それだけで決まる。――それを待てばよかった。


     そうだ、十年も経っている


 夜が長くなった。

 土間の台所で、手しゃくで飲む水が歯にしみた。長い間の無理な仕事で、小作の板のようになった腰が、今度はズキズキと痛やんだ。母親は由三に銭ぜんこをくれると云っては、嫌がる由三をだまして腰をもませた。――夜は静かだった。馬鈴薯を炉の灰の中に埋めたり、塩煮にしたりして、それを食いながら、腹這いになって色々な話をした。由三も皆の中に入って、眼だけをパッチリ見張りながら、頬杖をして話を聞いた。好きだった。――母親は昔のことをよく覚えていた。

 床に入っても、身体が痛んで寝つけなかった。暁方まで何度も寝がえりを打った。――過ぎ去ってしまった生涯が思いかえされる。――こんな「北海道」に住むとは思わなかった。一働きをして、金を拵えたら、内地くにへもどって、安楽に暮らそう、まア、二三年もいて――皆そう思って、津軽海峡を渡ってきた。だが、もう十年も経っている。今更のように自分の身のまわりを見廻わす。そうだ、十年も経ってしまっている。――そうか。そんなら、死ぬだけは内地くにの村で死にたい。

 誰か、内地の村に行ってくるというものがあると、同じ「国衆くにしゅう」のものが集ってきた。村に残っている自分の本家や別家の人達に、事づけを頼んだり、何かを届けてもらったり、村の様子をきいてきて貰ったりした。

 誰も何時かキット内地に帰る、そのことばかり考えている。――追われるようにして出て来た村を、今では不思議な魅力をもって思いかえした。

 夜が長くなると、夜中に何度も小便に起きた。半分寝言を云いながら、戸をあけると、身体がブルンブルンッとすくむ。――秋の、深く冴えきった外はひっそりとして、月が蒼々と澄んでいる大空に、高く氷のようにかかっていた。――若い女でも、出口にそのまま蹲んで、バジャバジャと用を達した。


     「もッきり」


 収穫が終ると、百姓の金を当にして、天気さえ良ければ、毎日のように色々な商人が廻ってくる。写真を沢山さげた仏壇を背負って、老人が鐘をならしながら表へ立った。太物をもった行商もきた。越中富山の薬屋が小さい引出しの沢山ついた桐の箱をひろげて、ベラベラ饒舌しゃべりながら、何時迄たっても動かなかった。馬の絵をかいた薬臭いちらしを子供達にくれて、無理矢理に要らない薬袋を置いて行った。――然し、「長い」北海道の冬が待っていることを考えれば、襦袢の切れもうっかり買えないのだ。

 正月を少しでも矢張り正月らしく送りたいために、小作人のうち又働きに出るものは出た。――娘達は、大根や馬鈴薯や唐黍などを荷車につけて、H町へ、朝暗いうちに、表をゴトゴトいわせて出掛けて行った。自分達は荷馬車の上に乗った。提灯を車の側にさした。声のいい女は流行歌はやりうたをうたった。H町へつくと丁度夜が明けかける。

 朝市に出るものは出、一軒一軒裏口から「おかみさん」と云って廻って歩くものは歩く。そして昼頃、空になった荷車にのって、今度はキャッキャッとお互いにふざけながら帰ってきた。――売っただけの金で襦袢や腰巻の切れを買ったり、餅屋に寄って「あんころ」などの買い喰いをした。

「のべ源」はH町で青物を売って、少しでも金をつかむと、電信柱に馬をつないで、停車場前の荒物屋に入って、干魚を裂きながら、コップの「もッきり」を飲んだ。

 大概の百姓は帰りに寄って「もッきり」をひっかける。――店先には百姓の馬車が何台もつながれていた。牝馬が多い。たまに牡馬が通ると、いななきながら前立ちになり、暴れた。荒物屋の中から、顔を赤くした百姓が飛び出して来て、牝馬を側わきの方へ引張って行った。

「のべ源」はここで酔いつぶれると、そのまま白首ごけのいる「そば屋」へ行った。――女達は「のべ源」を知っていた。――そして、イヤがった。酔うと、丸太のような腕で女をなぐりつけた。女が襖の足を払い、チャブ台をひっくりかえし、障子を倒して階段を芋俵のように転げ落ちたことがあった。

「のべ源」の馬はひっそりとした通りに、次の朝までつながれッ放しになっていた。


     「来世」


 毎年の例で、小樽から「偉い坊さん」を呼んで、S村龍徳寺で、四五日間説教が開かれた。――龍徳寺の前には、岸野や吉岡などの大地主や、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、308-下-5]、吉本などの寄附金の「芳名録」の札がズラリと立っている。岸野は「金壱千円也」出していた。――小樽から坊さんを呼ぶのも、主に岸野のつてだった。

 年寄りはその日を、子供がお祭りを待つより待っていた。

 その日、年寄りはしまって置いたゴワゴワな手織の着物をきて、孫娘に手をひかせて出掛けた。――畦道を、曲った錆釘のように歩いて行った。健の母親も決して欠かしたことがなかった。

「……現世は苦しい――嫌なこと、悲しいこと、涙のにじむようなこと、淋しいことで満ち満ちている。だが、これも前世イからの約束事、何事も因果の致すところじゃ、そう思オ――て、しのばにゃならない。――お釈迦様はそうおっしゃッていなさる。」

 坊さんはそう云う。年寄達は一句切れ、一句切れ毎に、「南無阿弥陀仏」を繰りかえした。

「……その代り、あみだ様のお側にお出になったとき、始めて極楽往生を遂げることが出来る。あ――あ、お前も人間界にいたときは苦しんだ。然し何事も仏様の道を守って、一口も不平を云うことなく、よくこらえて来た、もう大丈夫じゃ、さ、手を合わせて、こういう風に合わせて、たった一言、ナムアムダブツ、そう称えさえすれば大安心を得ることが出来るのじゃ。蓮華の花の上に坐ることが出来るようになるのじゃ……。」

「有難いお言葉じゃ。」

「あ――あ、有難や。有難や。」

「ナムアムダブツ。」

「ナンマンダブ、ナンマンダブ……。」

 ――百姓は心の何処かで、自分でも分らずに「来世」のことを考えている。――長い間の生活くらしがあんまり「苦し」過ぎていた、それがそして何時になったって、どうにもなるものじゃなかった。――あの世に行きさえすれば、年を取ってくれば、もうそれしか考えられない。

「何事も、何事もジッと、ジ――イと堪えることじゃ!」

 坊さんはそれを繰りかえした。


     キヌ


 健はキヌが帰ってきたことを知らされた。

「やッぱし小樽だ、あの恰好な! 大家の御令嬢さ。田舎の犬ば、見なれないんで、吠えるべ。――村の青年団もこれア一もめもめるべよ。」

 健は笑いもしなかった。

 キヌのことは別に頭になかった。――戻ってきたから、どうなる、どうする、今更そんなことでもなかった。

「キヌちゃ戻ってきたワ……?」

 節がそれだけを健に云うのに、吃った。――眼が健の顔色を読んでいる。

「馬鹿!」

 健は節の唇を指ではじいてやった。

 節は一寸だまって、――と、

「そう?――まア、嬉しい!」

 急に縄飛びでもするように跳ねて、かけ出して行った。――後も見ずに。

 健は二、三日してから、嫌な噂をきいた。――キヌが妊娠している、相手は大学生だとか云っていた。それでホテルにも居たたまらず、「こっそり」帰ってきたのだった。

 父はキヌを家に入れない、と怒った。――キヌは土間に蹴落された。ベトベトする土間に、それでも手をついて、「物置の隅ッこでもいいから」と泣いて頼んだ。

 まだ色々なことが耳に入ってきた。

 ――キヌはそんな身体で、無理をして働いた。手が白く、小さくなったものは、百姓家には邪魔ものでしかなかった。――自分で飯の仕度をして、それを並べてしまうと、隅の方に坐って、ジッとしている。皆がたべてしまって余りがあれば、今度はそれを自分でコソコソたべる。――健は矢張り聞いているのがつらかった。

 遅くなって、健が伴のところから帰ってくると、母親が顔色をかえていた。

「キヌちゃ首ばつッたとよ!――来てけれッて。」

 健はものも云わずに外へ出た。

 外へ出ると、「やったな!」と思った。――月の夜だった。キヌとの色々なことが、チラッと頭をかすめて行った。

 キヌは納屋で首を縊っていた。健が行くと、提灯をつけたものが七、八人いた。――父親が探がした時、知らずに打ち当ったと云うので、下がっているキヌの身体が眼につかない程ゆるく揺れていた。提灯の火だけでそれを見ていると、寒気がザアーッと身体を走った。

「ハ、ようやく村の恥さらしものに片がつきました……。」

 父親が血の気のない顔で云って歩いていた。

 健には、キヌの死んだ事が何故か、キヌという一人の人間だけのこと、それだけのことでなく思われた。――もッと別なことが、色々その中にある気がした。

 S村と小樽、これをキヌが考えさせる!

[#改段]


    九



     「なア、お内儀さん達よ――」


 岸野から返事が来た。

 伴のところへ、吉本から人が呼びに来た。――それと、健がキヌの葬式に出掛けて行く途中会った。

「聞かなくても分ってるんだ。」と伴が云った。

「岸野のこッた。――帰りに寄る。」

 勝の家の前で、父の一人一人ちがった兄弟が田の引水をせきとめて、鮒をすくっていた。身体をすっかり泥水に濡らして、臍のあたりについている泥が白く乾いていた。

「愛子オ。」――男の子が呼んだ。

「何アに。」

「愛子あ――とて、あれきあんだれき、ありやのあり糞!」

 女の子も負けてはいない。「源一げんとて、げりき、けんだれき、げりやのげり糞! やあ、げり糞、げり糞!」

 愈※(二の字点、1-2-22)いよいよだ! 健は恐ろしいような、心臓のあたりをくすぐられるような気持になっていた。

 ――吉本管理人は伴の顔をみると、

「見ろ!」と云って、眼の前に手紙を投げて寄こした。「あんなことを云ってやったから、見れ、かえって片意地にさせてしまった。――んだから、馬鹿だって云うんだ。」

 狸奴! 俺達の云った通りのことを、貴様が正直に書いてやったと誰が思ってる! 手前が自分の立場が可愛くて、小作人が飛んでもないことやらかしてるッて、有る事、無い事、嘘八百並べてやったんでないか。順序が順序だから、手前のような奴を中にはさんだんだ!――

 伴は手紙を懐に入れると、吉本に挨拶もしないで外へ出た。

「騒いだりしたら損だど。――分ってるべ、ん?」

 出かけに吉本が云った。――返事もしない。

 こうなれア立場としては吉本は、可哀相なほどオロオロだ。様ざまア見ろッ!

 伴の家には、五、六人集っていた。――健も居た。健は伴に会ってから、葬式どころでないと思って、顔だけ出すと、直ぐこっちへ廻ってきた。――自分も変ったな、と思った。キヌだって分ってくれるさ、と思った。

 そこへ伴が帰ってきた。皆伴を見た。

 瞬間、鋭い緊張がグイと皆を抑えた。

「ウハハハハハ。」

 戸口に立ったまま、何んの前触れもなく、伴は大声で笑った。そして懐から手紙を出すと、「ここまでお出で」をするように振ってみせた。

「駄目ッ!」ぶッつり切った。

 皆はつられたように、「駄目か!」「やッぱり!」「んか。」「駄目か!」口々に云った。――肩から力がガックリ抜けた。

「で、こんなものモウどうでもいいこった。――第二だ。」

 伴は皆の真中に大きく安坐をかいた。

 阿部は眼鏡を出してきて、ゆっくり手紙を読んだ。

「第二だ、これは俺達のうちから代表を選んで、岸野に直じき直き会って、詳しい話をするために小樽へ出掛けることだ。――喧嘩はまだ早い。後で大丈夫だ。」

「したども、伴さん一番先きに喧嘩してえんだな。」――年輩の小作がひやかした。

 両手で頭を大げさに抑えて、伴がウハハハハハと笑った。

「そうした方順序だし、ええ。」

「ええべ。」

「んでも、伴さんみたいに喧嘩早い人は代表には駄目だネ。」

「これでも駈け引になれば、駈け引はうまいんだよ。」――伴がてれた。

 何故そんな無駄な廻り道が必要なんだ。健は自分だけではそう思った。――分り切ったことでないか。

「喧嘩ッてなれば、矢張り乗るか、そるかだ。――やれることだけは、やって置かねば駄目だ。」――阿部までそう云った。

 心配していた女房達が、懐へ子供を抱き込んで乳をふくませたり、背中にくくりつけたまま、お互がああだ、こうだ、と話しながら、二三人ずつ、二三人ずつ集ってきた。――子供が喚いて、背中で母親の尻を蹴る。――入口がやかましくなった。

 こう集ってみると、小作の女達は「汚な」かった。畑から抜いてきた牛蒡ごぼうのように、黒くて、土臭かった。――然し、そのどの顔もたった一つのこと、「食えるか」「食えないか」で、引きつッていた。

「な、御内儀おかみさん達よ、」

 伴が一言ずつ顎をしゃくりしゃくり、何時もものを云うときの癖で、眼をつぶって――「聞いて貰おう。――この一年間、寝る眼も寝ず働いて、そのお蔭で、有難いお蔭で、今食うや食わずになり、――どうか生かしてだけは置いてくれッて頼んだ事だ。それをどうだ! この手紙を見てくれ。――馬鹿野郎だとか、気狂いだとか、監獄へブチ込んでやるぞ、とか――な、地主と小作は親と子だって云う。真赤な嘘だ。真赤な嘘でないか。これで親も子もあるもんか。」

「まア。」

「まア、まア!」

 女達はそれだけしか云えない。

 子供が急に大きな声を張りあげて泣き出した。いきなり平手で、馬鈴薯のような子供の頭をパシッパシッ殴った。「黙ッてれ、この餓鬼ッ!」――母親がムキになって怒っている。

 佐々爺と武田が「返事」のことで、ひょッこり顔を出した。佐々爺は東京新聞を振り上げながら、「どうしたんだ? どうしたんだ? ええ? どうした?」

 と、カスカスな声を絞り上げた。


     「俺の命でもとる気か?」


 交渉委員が小樽へ出発してから三日経って、ハガキが来た。阿部だった。


 ――誠意をもって会ってはくれない。朝七時に、門から玄関まで山があったり、池があったりする立派な邸宅を訪ねると、三十分も待たしてから、「店」へ行ったと云う。その店までは歩いて行って四五十分もかかる。そこで又二十分も待たして置いてから、ヌケヌケと、工場の方です、と云う。教えられた道を迷って、曲がりくねって、行き過ぎたりして、あげくの果てに工場が見付かる。見付かったって、何処からどう入って行って、どう云えば会えるか分らない。何人にも、何人にも頼んで、その度に百姓は冷汗を流す。そして云うことは同じ。ホテルに行ってる!

 ホテルへ行けば商業会議所。泣きたかった。――晩の十一時過ぎにようやく家で会ってくれた。音もしない自動車に乗って、酔って帰ってきた。

「俺の命でもとる気か、一日中尾行あとをつけて!」と、最初から怒鳴りつけられた。

 佐々爺はカラ駄目だ。――旦那様の云うことはお尤もで、へえ、ドン百姓ッてものは我儘で、無理ばかり云って、とか、まるでワケが分らない。

「小樽でグズグズしてると、警察へ突き出すぞ!」終いにそう云った。

 次の日はそれでも三時間程会った。

「こんな事はお前等ばかりでなくて、お前等の後をつッついている不穏分子がいるから、きいてやるワケには行かない。」

 不穏分子というのは「農民組合」のことだそうだ。

 とうとう駄目だ。話にならない。駄目と分ったら、直ぐ帰る。


 健は始めて伴から頼まれて、小作人の家全部を廻って歩いた。――今度のことはモウ成行きがきまっている。そうなったら一人でもハグれないようにするためだった。――一廻り、廻って来ると、健は他愛なくなる程疲労した。

「ん、ん、ん!」

 ときいてくれる隣りでは、何しに来やがった、という顔をした。

「困るには困るども、穏当でねえべもしな。――後がオッかなくてよ。」

 そんなことも云う。

「岸野さんだら、一度ウンとやって置く必要あるんしな。」

 そして何処ででも、「へえ、健ちゃが、健ちゃがこんな事するようになったのか?」と、不思議がられた。

 その度に健は耳まで赤くして、ドギマギした。

 然し、たったそれだけの事をしただけで、健は何か大きな自信と云ってもいいものをつかんだように思われた。


     「納屋にあるのか?」


 健が裏で、晩に食う唐黍をとっていた時だった。

「健ッ! 健ッ※(感嘆符二つ、1-8-75)」――母親の叫び声が家の中でした。

 その声にただ事でない鋭さを感じて、健はグイと襟首をつかまれたと思った。

 家の中にかけ込んだ。かけ込んで――見た。

 吉本管理人! 剣! 巡査だ! 役場の人! 鞄! 一瞬一瞬のひらめきのように、いきなり健の眼をくらました。

「気の毒だが、小樽からの命令で、小作米を押えるから。」

 吉本は戸口に立ったきりの健に、憎いほど落着いた低い声で、ゆっくり云った。

 ――健はだまって裏へまわった。皆はゾロゾロついてきた。母親はオロオロして、吉本や特に親しかった巡査の後から同じことを何度も云った。

「お母さん、どうも仕方がないんだ。」

 巡査はうるさそうに云った。

[#改段]


    十



     「小作調停裁判」


 又順序をふんだ!

 こうなると、健がジリジリした。――「小作調停裁判」を申請するというのだ。

「分りきった無駄足を何故使うんだ。」健はハッキリそう思った。――何んと云ったって、阿部も伴もやっぱり年寄りだ、とさえ思った。

 然し、ただ、今迄とはちがって、兎に角「表へ出る。」――所謂いわゆる社会的な地位のある人は、案外表へ出ることを嫌う。そこを衝いてみる必要がある――阿部も伴もその事を考えていた。

 差押えを受けてから、小作人もちがってきた。「モウ親も子もあるもんか。」――一番おとなしい小作さえ口に出して云った。

――小作は毎日毎日の飯米にさえ困った。納屋には米俵がつまさっている。何十俵も積まさっている。何十俵という米俵が積まさっていて、そして飯が食えなかった。

「少しでも手をつけると罪人だぞ。」

 巡査が時々廻ってきた。まるで岸野から言伝ことづかって来たようだった。――小作人は「罪人」と云われると、背中がゾッとした。

 H町からの帰り、母親と由三が薄暗くなったのを幸いに、所々の他人ひとの畑から芋や唐黍を盗んできた。――前掛けの端を離すと、芋、唐黍、大根が一度に板の間にゴトンゴトンと落ちた。

「兄ちゃさも、恵にも云うんでねえど!」

 家のなかに上ると、母親はさすがにグッたりした。――とうとう泥棒をしてしまった、と思った。

「……んでも泥棒させるのは、岸野さんだ。……ええワ、ええワ!――何アに……。」

 横坐りになると、そのまま何時迄もボンヤリした。

「母、俺ら学校の帰り何時でも取ってくるか?――由何んぼでも、見付からないように盗とれるワ。」

「馬鹿!」――母親はいきなり叱りつけた。

 食えなくなった小作達は、だまっていても、伴のところへ代る代る集ってきた。小作調停のことは、それで思ったより早く纏った。

 武田と佐々爺は「何んとか外にないか」「何んとかなア……」と云っていた。

 伴外一名が代表になって村長へ「口頭」で、小作調停裁判を申請した。村長は「遅滞なく」そのことを旭川地方裁判所へ提出した。それが「受理」されると同時に、小作米の差押えが解除された。――小作人はどうかした拍子に「かなしばり」がとけた時のような身軽さを感じた。――「やれ、やれ。」

 小作米は直ぐH町の「農業倉庫」に預け入りして、「倉荷証券」にした。それは何時でも現金にすることが出来るようになった。


     「小作官」


 道庁から「小作官」がやってきた。黒の折鞄を抱えた左肩を少し上げて、それだけを振って歩いた。伴の家へ上ると、茣蓙敷のホコリとズボンの膝を気にした。窮屈に坐った。話をききながら、「朝日」を吸った。――何本も何本も続けて吸う、しばらくもしないうちに、白墨の杭のように、炉の灰の中に殻が突きささった。

 阿部が伴に代って、初めから順序をつけて詳しく話した。

「ム――、それア、岸野さんにチィ――ト無理なところがあるね。」

「何がチィ――トだい!」

 帰ってから、伴が小作官の真似をして、皆を笑わせた。――「あったらヘナヘナに、百姓のこと何分るッて!」

 調停委員には「実情に通じた」その土地の「名望家」が選ばれた。――相馬農場の老管理人、H町々長、S村の校長など。

 判事が「調停主任」になった。

「心細いな。小作人の本当の気持が分っていてくれる人無ねえんだものよ……。」

 健が廻って歩いている小作の家でそう云うと、

「んでも偉い立派な人達だもの――ためになるようにやってけるべ。」

 健はがっかりした。

 第一回の呼出状が来た。

 裁判所へ出ると云うので、伴はそう度々着たことのない着物をきて出掛けた。

「何んも似合わねえな――どうだ、似合うか?」

「熊が着物ば着たえんたとこだ。」

「熊おやじ?――可哀相に! ハハハハハ。」

「そう云えば、百姓って良ええ着物きたこと無えんだもの――似合うワケ無えさ。」

 出掛けに伴が云った――

「これが駄目になったら、最後だど!」


     誰と誰が繋がっているのか


 恩を売った犬畜生奴! よくもこんな処さ持ち出して、赤恥かかしやがったな。勝手にしろ!――裁判所の真ん中で、岸野がいきなり俺達を怒鳴りつけたんだ。

 やってみろ! 足腰たたない位たたきのめしてやるから!――これが、いくら地主であろうと、小作人に云う言葉か――俺はこの四十三の大人になって、面と向ってこんな事を云われたのは初めてだ。

 三日のうち五度会った。そして五度怒鳴り散らされた。――俺達は怒鳴られるために旭川まで出掛けて行ったんじゃない、調停して貰うためにだ。

 ところが、「調停委員」は一体どんなことをしたと思う。――まア、まア岸野さん! それ位だ。こんなものが調停なら、誰にでも出来る。

 後で、「農民組合」の弁護士が云っていた。

「調停裁判」なんて名前はええが、こんなものは、これから益※(二の字点、1-2-22)起るおそれのある小作争議をば体よく抑えて、大きくしないうちに揉み消しにして――結局地主ば安全にさせて置こうとするための法律だ。ところが、一寸見がいいために、何も知らない百姓はその人の好よさから、あーあ有難いものが出来たと大喜びなんだ。そこが又うまくしてあるところだって。

 んだんだ。今度でそれがよッく分った。――今年は全道みんな不作だ。何処でも小作争議が起りそうだんだ。――それで何処かで、皮切りでもされれば大変だ。んだから、外の地主も俺達のば何んとかして、うやむやにしてしまいたいので調停委員の後さこっそりついてるんだとよ。

 小作官などは「この事件を無いことにしてくれれば、岸野さんからお前等に慰労金を出させてもいいんだが、――社会のためにも、その方がいいんだ」と云ったものだ。

 聞いたか?――みんなグルだ。

 もう残ったものは俺達ばかりよ。――こうなったら、皆! 意気地なく黙って首ば縊るか? もう一日だって食えねえんだからな。それに岸野は腕ずくでも取ってみせるッてるんだ。――それとも死にたくなかったら、最後までやるか?――もう、このどっちかに来ているんだ。どっちかだ。

 んで、どっちだ!

 ――伴は自分でも泣いていた。

 次に組合の荒川が「争議団」を組織して、即刻戦闘の準備をしなければならないことを、皆に話した。「鉄は赤いうちに!」

 寒い雨が降っていた。――もう冬が近い。そしてそれが知らない間に氷雨になっていた。さすがの(実際、さすがの、と健には思われた。)小作人もありありと興奮の色を顔に出していた。

「そんなことまでやるのか! 畜生奴!」

 皆は雨の中を帰って行った。出口で傘をさすと、急に雨の音がやかましくなった。どざだけをかぶって、肩を濡らして行くものもいた。雨に声を取られないように、大きな声でお互に話しながら帰って行った。

 阿部、伴、健、荒川、その他小作人三人、組合員二人――これだけが、二日の間に三時間位しか寝らずに、「岸野小作争議団」結成のために馳けずり廻った。ビラを書いたり、謄写版の原紙を書いたり、刷ったりした。――健は始めての色々な経験で興奮していた。

 人数が纒って来た。――今迄健が捨石のように廻って歩いていたのが、案外役に立った。

 佐々爺や武田は、訪ねて行くと、訳の分らない議論を吹ッかけた。争議団のものが分らないで、つまると、

「そんなんで地主さ楯つけるか?」

 と、嘲笑わらった。

 武田が吉本管理人と相談し合って、小作人の切り崩しをやっている噂が入っていた。

 荒川が鉄筆で頭をゴシゴシやりながら、

「こうなったら佐々爺とか武田、それに『のべ源』あんなものに気をつけなけア駄目だ。――何んしろ金でやってくるんだからな。」

 やもめの勝が、芋と唐黍を子供に背負わせて、伴の家にやってきた。

「――※(感嘆符疑問符、1-8-78)」

 健はグイとこみ上ってきた気持をどうすることも出来ない。

「なんぼなんでも、涙が出て、とても貰えないよ。」

 阿部も「分る! 気持だけで沢山だ!」と、何時もの阿部らしくもなく、周章てたように押し戻した。

 どんな事にでも直ぐ感激する伴は、何時迄も鼻をグズグズさせていた。

「な、どうだ、阿部君よ、勝たんばならないな!」

「驚いた! こっちから持って行ってやらなけアならない位の処から、持ってくるなんてなア! 矢張り、ああなると本当のことが、黙ってても分るんだな。」

 健は身体に鳥膚が立つ程興奮を感じた。

 伴の家では、伴のお内儀かみさんや阿部のお内儀さんも出て来て、てきぱきと家の中の細かい仕事を片付け、――暇々には、小作の家を廻って歩いて「女は女同志」その方からも結束を固めていた。

 死んだキヌの妹は自分から手伝いに来ていた。伴のおかみさんと気心がよく合って、気持いい程仕事をしてくれた。ビラ書きを手伝ったりした。――顔はキヌとそのまま似ていた。が何時でもツンツンしているので、何んだ此奴と思って、健は嫌いな女だった。――然し、こんな時に節が出てきていてくれたら、と思うと、淋しかった。が、あの可愛い節は、一日でも早く健が昔の健にかえってくれるように、と祈っているときかせられて、健はがっかりした。

 小作争議に入ってから、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、320-上-2]の旦那は争議団に関係している小作には絶対に「掛売り」をしないと云った。結局それは、小作には品物を絶対に売ってくれない事と同じだった。それに今迄の、何年もの間の「掛」をたった今払ってもらおうと、おどかした。

「社会主義者どもの尻馬に乗って、日本の尊い遺風にキズをつける大不忠者!」

 店先きで怒鳴りつけられた。

「在郷軍人の小作であって、若し争議に関係するものがあったら、陛下に対して申訳がないと思え! 軍人たるものの面汚しだ。」

 同じことを「青年団」や「青年訓練所」のもの達にも云って歩いた。

「んでも※[#「┐<△」、屋号を示す記号、320-上-14]さん、食えないんだもの、どうも仕様無えしな……。お前さん達なら、それでええかも知れねしどもな。」

 小作も※[#「┐<△」、屋号を示す記号、320-上16]に云われると、矢張りマゴマゴした。然しどうにも食えなかったのだ。

 健は然し、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、320-上-18]がそんな「偉い」ことを云って歩いていながら、吉本管理人とちアんと結び合っていること――吉本と争議のことで、H町の料理屋で会ったことを知っていた。

「恐ろしいもんだな。」

「恐ろしいもんだよ。――何処で、どう関係があるか、表ばかりの云うことや、することを見ていたんじゃ分らないんだ。」

 荒川が健から聞くとそう云った。「糸を手繰ると、飛んでもなく意外な奴が、実は一緒になってるもんだよ。」

 学校では由三達が市街地の子供からいじめられた。

 あの「温厚な人格者」の校長が(健は殊にそう思っていたのだ!)時間がある毎に、小作争議のことを「不祥事だ」「不祥事だ」と云った。「若しお前達の親や兄弟で、あんな悪いことをするものがあったら、やめさせるように一生ケン命お願いしなければならない。」

 先生の云うことなら、どんな事でもそのまま信じこむ由三は、家へ帰ると健に泣きついた。――由三は学校へ行くと、いじめられるので時々休んだ。そして健のところへ来た。手紙を届けたり、ビラを配るのに手伝った。――「学校さ行えぐより、ウンとええわ。」

 お恵は髪に油をテカテカつけたしゃれ男とブラブラしていた。

「兄ちゃば皆偉いッて云ってるど。」

 健が遅く帰ってくると、腹這いになって、講談本を読みながら、見向きもしないで、ヘラヘラした調子で云った。

「この恥ざらし!」

「んだから偉いんだとさ。」

 健はだまった。

 彼は自分の妹や母親のことでは、どの位阿部や伴に肩身が狭いかわからなかった。

[#改段]


    十一



     「千回もやってくれ」


 第一回の「岸野小作争議演説会」が町の活動小屋で開かれた。――各農場相手に生活をしている町民や、他の農場の小作達も遠いところから提灯をつけてやって来た。

「割れる程」入った。

 健は始めて「演壇」に上がった。壇へ上がると、カッと興奮してしまった。途中で、何を云ったか分らなくなってしまった。分らなくなると、周章てるだけだった。――時々、拍手と、「分った分った」「もうやめれ!」「その通り!」そんな野次の切れ端しを覚えているだけだった。下りて裏へ行くと、キヌの妹が、

「上出来だよ、健ちゃ!」と云った。

 演説会は大きな反響を起した。――それから一週間もしないうちに、他の農場では争議を起されないうちに、(申訳ばかりだったが)小作料の軽減を行った。

 然し岸野からは、「お前等が仮令千回演説会を開いても、蚤にさされたよりも、痛くも、かゆくもない。もっと元気よく、もっともっとやってくれ。」と云ってきた。

 吉本はざま見ろ、という風に、それを持ってきた。

 三度演説会を開いた。――然し「残念ながら」何度開いても、それが具体的にどうなるわけでもなかった。どうにかしなければならない。事実荒川や阿部達も行き詰りを感じてきていた。――あせり出した。


     方向転換


 筆不精なばかりでなしに、手紙などというものを書いたことのない健が、思い出して、フト七之助に手紙を書いた。そして今度の争議のことを知らせてやった。

 すぐ七之助から返事が来た。

 ――小樽の労働組合のものに、そのことを話した。そしたら小樽へ出て来い、と云うのだ。地主は小樽に居る。そんな処でいくら騒いだって、岸野には、百里も離れた向う岸の火事よりも恐ろしくない。都会の労働組合が応援して、一緒にやらなければ、その争議は決して勝つことは出来ないだろう、と云っている。一刻も早く争議団が出て来るように、話すことだ。云々――

 このたった一枚の葉書が、思いがけなく、行き詰っていた方向に大きなキッカケを与えた。

 そうだ、それだ!――気付かなかった。

 争議団は活気づいた。――新らしい編成が行われた。

「争議団小樽出張委員」、農場に残る「連絡委員」の決定、――この争議を岸野農場だけのものにせず、他農場も一斉に立つように、たゆまず宣伝、煽動すること、――小樽に於ける情勢の刻々の変化に応じて、報告、示威、糾弾を兼ねた演説会を開くこと、これには農民組合S村支部が主に当ること――等が定められた。

 健は小樽へ出て行きたかった。然し連絡委員として残らなければならなかった。――仕事が急に忙がしくなった。「農業倉庫」に入れてある米を、倉荷証券で売り払って、争議資金に充てることにした。

 争議団小樽出張委員伴、阿部外十三名は、組合旗、流し旗をたてて小作人に送られた。小樽に出るということが分ると、吉本や武田は周章てて、遠まわしに調停めいたことを云ってきた。

 雪は四、五日前から降っていた。満目ただ荒涼とした石狩平野には、硝子クズのように鋭い空ッ風が乾いた上ッ皮の雪を吹きまくっていた。

[#改段]


    十二



     手を握り合って!


 情報、一

 吸血鬼・地主岸野と戦わんとして、S村岸野農場小作人代表十五名が、はるばる小樽へ出陣してきた。

 直ちに、「農民組合連合会」「争議団」「小樽合同労働組合」とで、

 「労農争議共同委員会」

を組織し、茲に労働者と農民の固き握手のもとに、此の争議に当ることになった。

 農民を過去の封建的農奴的生活より、光ある社会へ解放し得るものは、都市労働階級の力だ。

 農民が都市に出陣してきて、「労農争議共同委員会」を強固に組織し、かかる形態で地主と抗争する小作争議は、日本全国に於て、この岸野小作争議をもって最初とする。――農民運動の方向転換期にあるとき、且つ又急速なる資本主義の発展に伴う「地主のブルジョワ化」、従って都市居住地主――不在地主が、その典型たらんとしつつあるとき、この争議こそ重大な意義をもつものと云わなければならない。


 情報、二

 三日夜六時、小作人十五名出樽。小樽合同労働の約二百名の組合員の出迎えをうけ、直ちに岸野の店舗、工場、ホテル、商業会議所に押しかけ示威運動をする。元気。

(七之助の手紙。――停車場へ二百人近くも押しかけた。阿部さんも伴さんも驚いたらしい。眼に涙をためていた。面白いのは矢張り百姓だ。労働組合の人も云っていたが、こっちが感極まって、ワアッと云っても小作人達はだまっている。嬉しくないのかと思うと、そうでもないらしい。こっちで十しゃべると、それもモドカシクなる程ゆっくり三つ位しゃべる。――さすがに、伴さんのあのガラガラ声も、ウハハハハも出ないで、組合の二階の隅の方にキチンと膝を折って坐っている。――組合員の一人が、農民とは如何なるものか、ときかれたら、――組合の二階の板の間の、それもなるべく隅の方にキチンと膝を折って坐るものであります、と答えればいいと皆を笑わせた。)


 情報、三

 毎日、赤襷を[#「赤襷を」は底本では「赤欅を」]かけて、岸野の店先きに出掛けるばかりでも、小樽の市民に「岸野の小作人」の顔を知らぬもの無きに到った。

 六日、「市民に訴う」という今迄の詳しいイキサツを書いたビラ一万枚を撒布する。


 農民は「働くと」年何百円も借金をして行った。――その詳しい「ちらし」が、市民の間に大きな反響を呼んでひろまって行った。

 七日、「第一回真相発表演説会」を開く。出演弁士相次いで「中止」、直ちに「検束」を喰らい、警察送り五名に達した。――だが、聴衆は場外にあふれて、所々に乱闘騒ぎを起した。――市民の同情動く。

(七之助。――伴さんは「中止」とか「注意」に慣れていないので、「中止!」と云われてから知らずに二三言しゃべってしまった。それでいきなり壇から引きずり落されてしまった。

 組合の竹畑が検束になった。それに対して書記長の太田が抗議をしかけたら、「生意気な、この野郎!」とばかりに、その場で滅茶苦茶になぐられた。――組合に帰ってから、伴さんや阿部さんは何処かしょげこんでしまった。無理もないかも知れない。

「な、七ちゃん、こんな工合で一体どうなるんだべ!」――伴さんが云うのだ。

 初めての「凄さ」で、おじけついたのだ、と組合の人が云っていた。

「これでまア、然しよくやめもしないものだ。」伴さんには組合の人達の方が分らないらしい。)


 小樽からは、一日も早く争議団の「青年部」と「婦人部」を組織するように指令が来た。婦人部は伴と阿部の細君とキヌの妹が先きに立って働き出した。

 第一回の「情勢報告[#「報告」は底本では「報吉」]」の演説会を開いた。――健はだんだん面倒な仕事に自信が出来て来た。

「どうして節ちゃんにも仕事をして貰わないの?」

 キヌの妹はそんな事を云い出してきた。


 情報、四

 岸野の邸宅、店舗、其他には番犬が急に殖えた、その番犬は帽子をかぶり、剣をさげている。――こうなればハッキリしたものである。小作人代表の交渉附添いに行った組合の武藤君は、番犬に噛みつかれてすぐ検束された。

 交渉に対して、岸野は飽くまで「正式交渉」を拒み、「交渉の代表」を認めない。

 次席警部は武藤君に対して、「警察は如何にも君等の言う通り、資本家の走狗だ。その積りで居れ。」とハッキリ云った。

 一日二回「共同委員会」を開催して、刻々の情勢に対して、策を練っている。


 情報、五


  寄附左ノ如シ。

 白米五俵         (日本農民組合××部外三)

 行カレヌ、労農提携ニ

 ヨル勝利ヲ天下ニ示セ   (大阪農民組合本部)

 岸野搾取魔ヲ徹底的ニ

 ヤッツケロ        (日農××支部)

 五円八十銭        市内運輸労働者四十一名

 弐銭切手四十枚      一労働者

 鶏卵七個         〃


 阿部からの手紙。――応援金を少しでもいいから送ってくれるように運動して貰いたい。そうすれば労働組合や農民組合連合会の人達に対しても面目が立ち、同時に争議団一行の元気を一層引き立てることが出来るから、皆で相談の上至急お願いしたい。

 七之助。――阿部さんは、どうして我々百姓の争議に無関係な小樽の労働者達が、(組合員はまずとして)仕事を休んでまでも、そして警察へ引ッ張られて行って、殴られて迄も応援してくれるのか分らない、と涙を光らせながら話した。お互い貧乏な労働者から、毎日のように寄附が集ってくる、それも不思議でならない、と云うのだ。

「矢張り貧乏人だからよ。――地主と資本家とでは変っておれ、お互いに金のある奴から搾られていることでは同じからよ。」

「それアそうださ。んでも……こんなに……」――仲々分らない。

 とにかく、俺さえ吃驚する程、労働者が戦ってくれている。めずらしいことだ。――やっぱり労働者と百姓は、底の底では同じ血が通っているんだ。

 争議が長びくかも知れないから、と云うので、そっちから馬鈴薯五俵送ってきたのを見て、組合員が泣いたよ。米でなくて薯だって! 食うや食わずで仕事をしている労働組合員でも、薯を飯の代りにはしていない。――百姓ッてものが、どんなに低い生活をしているか、而もそれでいて、どんなに飢えなければならないか!

 武藤などは、この「薯」のことだけでも、飽く迄[#「飽く迄」は底本では「飢く迄」]戦い抜かなければならないと云っている。


 情報、六

 出樽以来二週間に達した。争議団のうちの小作人で、最初日和見のものも随分いたようであったが、日々の交渉、集合による訓練、労農党員の「社会問題講座」の開設等によって、(これは忙しい合間合間に行われたが、その効果では著しいものがあった。)次第に意識的、階級的立場に教育され、ビラ撒き其他の運動に積極的に「動員がきいてきた。」

 争議団からは二名、「労農共同委員会」に委員が出ているが、更に「交渉」「訪問」「文書」「会計」の部門にも、これを編入し、組織的に、活動に従事させている。


 健は、情報や個人個人から来る詳しい手紙や毎朝の新聞で、争議がどういう風に進んでいるか、大体の見当はついていた。――其処ではどんな恐ろしい事が毎日起っているとしても、(阿部からは、自分達は半分恐ろしさにハラハラしながら、一生懸命労働組合の人達に引きずられてやっている。あれ以来ゲッソリ痩せてしまった。――S村で考えていたようなものでない、と云ってきていた。)然し、健はそういう「訓練」を受けることの出来ない自分を残念に思った。


 情報、七

 争議勃発以前申立てた「小作調停」に対して、十五日旭川裁判所に、伴外一名の代表が呼び出され、出頭した。

(勝見小作官、判事、調停申立人伴外一名、地主岸野。)

 判事――お前達は誠意をもって、おとなしく解決する気か、騒いで解決する気か。

 伴――こっちは不誠意でも何んでもありません、地主が不誠意なのです。

 判事――小樽あたりで演説会を何故やるか。どこ迄も喧嘩腰でやる気なら、調停を取り下げて貰いたい。

 小作官――お前達が喧嘩をして勝つと、小作人全体がきかなくなるから、そんな事をして貰っては実に困るじゃないか――お前等は金がない、味噌がないと云うが何故小樽あたりへ行けるのか。

 伴――組合支部の応援で行ってるのだ。


 これは一字一句も直していない。それもたった一部の写しでしかない。

 これを読んだら「調停裁判」の本質が何んであるか、分る筈だ。

 全道各地に「地主協議会」というものを作り、蔭ながら岸野を援助している。彼等も亦結束し出した。――××支庁長は「小作人勝タシムベカラズ。」という厳秘の指令を管轄内の「有力者」に配った。それが組合支部の一小作人の手に入ったのだ。

 それならば、よし! 我等は益※(二の字点、1-2-22)結束を固めなければならない。


 情報、八

 岸野は会見の度毎に、言を左右にし、代人をもって無責任な面会をさせ、誠意さらに無し。

「小作人が生意気になって働かなくなったら、北海道拓殖のために大損害を与えることになる。――お前等の要求は、俺一個の立場からではなく、この大きな問題からいっても断じて通すことはならん。」と放言した。

「北海道拓殖のため」は大きく出たものだ。その裏表紙には「俺の利益が減るから」と書かれているのだ。

 殆んど毎日、市民に訴えるビラを撒布する。市民は明らかに小作人に同情を寄せている。そして今や一つの「社会問題」にまで進展しようとしている。「岸野――小作人の問題」の限界を越えようとしている。

 我々は意識的に、精力的に、その方向へ努力しなければならない。

 ┌─────────────────────────┐

 │      決議                 │

 │  今回岸野小作人が遠路出樽、小作料減免を歎願せ │

 │ るは、一昨年来の凶作を考えるとき、その要求に何 │

 │ 等不当なるものあるを認めるを得ず。速かにその解 │

 │ 決のために努力せられん事を促すものである。   │

 │  若し貴殿にして解決の誠意を示さざる時には、貴 │

 │ 殿の荷物の「陸揚げ」を絶対に拒否し、貴殿工場の │

 │ ストライキ、貴殿発売商品の不買同盟を決行す。  │

 │  右決議す。                  │

 │          全小樽陸産業労働者会議    │

 │    岸野殿                  │

 └─────────────────────────┘

 この決議は岸野の出鼻を挫いた。

 七之助からの手紙には、「工場」も動き出して来たと書かれていた。


 情報、九

 二十四日の「官憲糾弾演説会」当夜に於ける、官憲の血迷える醜体! 剣を短く吊った(イザッて云えばすぐだ!)警官を百人も会場の内外に配置する。会場の周囲には、要所要所に縄を張って、交通を遮断し(これでも交通妨害にならないから不思議だ。)来場の聴衆を一々誰何すいかし、身体検査をもって威怖せしめるのだ。

 印刷屋にはスパイを派して、ビラの印刷を妨害し、会場会場の先廻りをしては「あんな奴等に貸せば、会場を壊されるぞ」と威圧的に、明かに「営業の目的」を迫害している。

 然し、此等の弾圧こそ逆に我々の闘争をより強固に、固く結びつかせるに役立つのだ。

 一緒に仕事をしているうちに、健は「ツンツンした」女にひきつけられてきた。

「節ちゃがね、健ちゃは魔がさしてるんだって、悲しそうにしてたよ。」

 そう云って、キヌの妹がキャッキャッと笑った。勝気らしく仕事をテキパキと片付けて行った。

[#改段]


    十三



     「女は女同志」


 ┌───────────────────────┐

 │   地主様の奥様にお願いして        │

 │ 幼児を背にして、五人の女房達きのう小樽へ! │

 └───────────────────────┘

 大きな「見出し」で小樽新聞が書いた。――岸野農場の小作人十余名は、三日来樽以来、苦闘に苦闘を重ねているが、留守宅の細君等も安閑として日を過ごすことが出来ない。「女は女同志」奥様にお願いをしようというので、家に老人や子供を残し、村を後に出樽した五名の妻君はゴワゴワの木綿着物に澱粉靴をはき、毛布の赤いキャハンを出して、幼児を背に……云々。


 健は「連絡委員」と入り代って、女房達とは一足遅れて、小樽へ出て来た。

 ┌─────────────────────────┐

 │   どの面さげて出て来た!           │

 │     「畜生奴」               │

 │ 散々罵られたが奥様に面会せぬうちは帰らぬという │

 │ 女房                      │

 └─────────────────────────┘


(小樽新聞) 悲痛な決心のもとに来樽した妻君達は、直ちに岸野宅におもむき夫人に面会を求めたが、病気の故で、遂に面会出来ないとの返事に対し、妻君達は、家の何処でもいいから寝かせて頂いて毎日でも待って居ります、と云ったが、一応争議団本部に引き上げることになった。子供達は久し振りで父親の顔を見たので、父さん、父さんと呼んで、抱かるるなど、一種の劇的場面があった。

 妻君連は更に二十一日岸野氏宅に至り面会を求めるところがあった。

 婦人争議団の一人伴君の女房語る。――私達は岸野様の奥様に面会して、農場を開くに苦心した当時の有様を詳しくお話し、そして今どんなに惨めな暮しをしているか申上げたいと思ったのです。ところが、岸野の御主人様は私共に「小樽に面白おかしく出て来たのか?――どの面さげて小樽に出てきたんだ。」とか、「真人間になって出直して来い。」とか云われました。――真人間になれッて、どんな事かチットモ私共には分りません。

 然し、女なら女同志、この苦しいことが分って頂けると思って、ようやく奥様にお会い出来て、お話しました。どうでしょう! ところが!

「お前達の顔も見たくない!」いきなり大声で叱りつけられました。

 これは意外でした。――私共は家を出るとき、皆さんにキット奥様の温いお言葉を頂いて帰ると云って来たのでした。

「お前等のために、この何十日ッてもの夜も満足に眠れたことがないんだ。――この恩知らず奴!」

 私共は申しました。「いいえ奥様、貴女は夜もおちおち眠れないと仰言おっしゃいましたが、それは然しただ眠れないだけのことでしょう。然し私共は一日一日が生きて行けるか、行けないかのことなんです。命がけのことなんです。」

 だが、もう決してお前達には会わないし、云うこともきいてやらないから勝手にせ! とうとうそう云ってしまいました。――涙ながらに語った。

 かくして岸野小作争議は、「社会的」に益※(二の字点、1-2-22)深刻を極めて行くものの如くである。

[#改段]


    十四



     「解散! 解散※(感嘆符二つ、1-8-75)」


「演説会」が開かれた。健は組合の人や阿部、伴などと一緒に、劇場の裏口から入った。入口で巡査から一々懐や袂を調べられた。

「よし。」そう云って背中を押す。

「何が、よしだ!」――健にはグッと来た。

「御苦労さんだな!」――組合員は小馬鹿にした調子を無遠慮にタタキつけて、ドンドン入って行く。

 二階から表を見下すと、アーク燈のまばゆい氷のような光の下で、雪の広場はチカチカと凍てついていた。顎紐をかけた警官が、物々しく一列に延びて、入り損った聴衆を制止していた。丁度真下に、帽子の丸い上だけを見せて、点々と動いている黒い服が、クッキリ雪の広場に見えた。――所々に小競合こぜりあいが起って、そこだけが急に騒ぎ出して、群衆がハミ出してくる。警官が剣をおさえながら、そこへバラバラと走って行く。

 二千人近くのものが帰りもしないで、ジリジリしていた。

「立ち止っちゃいかん。」

「固まると、いかん。」

「こら、こら!」

 警官があちこちで同じことを繰りかえしていた。

 群衆のしゃべったり、怒鳴り散らしたりしている声は、一かたまりに溶け合って聞える。時々鋭く際立ってそのなかから響くことがある。

 ――健は「有難かった!」有難い! 有難い! わけもなくその言葉が繰りかえされた。

 寒気しばれていた。広場はギュンギュンなって――皆は絶えず足ぶみをしていた。下駄の歯の下で、ものの割れるような音をたてた。

 演説会は最初から殺気立っていた。

「横暴なる彼等官憲……」

「中止!」

 直ぐ入り代る。

「資本家の番犬……」

「中止ッ!」

 ――二分と話せない。出るもの、出るもの中止を喰った。

 ――阿部も伴も演説が上手うまくなっていた。聴衆は阿部や伴のゴツゴツした一言一言に底から揺り動かされているではないか! 健は睡尻に[#「睡尻に」はママ]ジリジリと涙がせまってくる。いけない、と思って眼を見張ると、会場が海底ででもあるようにボヤけてしまう。

 伴の女房も演壇に立った。――日焼けした、ひッつめの百姓の女が壇に上ってくると、もうそれだけで拍手が割れるように起った。そしてすぐ抑えられたように静まった。――聴衆は最初の一言を聞き落すまいとしている。

 伴の女房は興奮から泣き出していた。――泣き声を出すまいとして、抑え抑えて云う言葉が皆の胸をえぐった。――あち、こちで鼻をかんでいる。

「……これでも私達の云うことは無理でしょうか?――然し岸野さんは畜生よりも劣ると云われるのです。」

 拍手が「アンコール」を呼ぶように、何時迄も続いた。誰か何か声を張りあげていた。

「こんな事はない!」

 組合の人が健の肩をたたいて、すぐ又走って行った。――「こんな事はない!」

 次に出た労働組合の武藤は「三言」しゃべった。「中止!」そして直ぐ「検束!」

 警官が長靴をドカッドカッとさせて、演壇に駆け上った。素早く武藤は演壇を楯に向い合うと、組合員が総立ちになっている中へ飛びこんでしまった。人の渦がそこでもみ合った。聴衆も総立ちになった。――武藤は見えなくなっていた。

「解散! 解散※(感嘆符二つ、1-8-75)」――高等主任が甲高く叫んだ。

 聴衆の雪崩は一度に入口へ押し縮まって行った。健がもまれながら外へ出たとき、武藤は七、八人の警官に抑えられて、橇(検束用)へ芋俵のように仰向けに倒され、そのままグルグルと細引で、俵掛けのように橇にしばりつけられてしまっていた。仰向けのまま、巡査に罵声を投げつけている。――見ている間に橇が引かれて行ってしまった。百人位一固まりになった労働者が「武藤奪還」のために警官達と競合いながら、橇の後を追った。

 会場の前には、入れなかった群衆がまだ立っていた。それと出てきたものとが一緒になると、喊声をあげた。そして、道幅だけの真黒い流れになって――警察署の方へ皆が歩き出した。組合のものが、その流れの「音頭」をとっていることを健は知った。

 健は人を後から押し分け、――よろめき、打つかり、前へ、前へと突き進んだ。――もう、どんな事も何んでもなかった!

 知らないうちに、右手で拳がぎっしり握りしめられていた。

[#改段]


    十五



     事態が変ってきた


 事態が変ってきた。

 秘密に持たれていた「地主協議会」のうちから、今では殆んど社会全体と云っていい反感が地主に対して起きている時、これをこのまま何処までも押し通して行ったら、「大変なことになる」ということを考える地主がだんだん出て来た。――それ等の人達が岸野に「妥協」をすすめた。

 岸野の「工場」にストライキが起りそうになっていた。――七之助がそのために必死に働いていた。組合員がモグリ込んでいた。千名から居る職工が怠業に入りかけたということが、岸野を充分に打ちのめしてしまった。

 争議団では更にこの争議を「社会的」なものにするために、学校に行っている小作人の子供を一人残らず盟休させて、小樽へ来させる策をたてた。それが新聞に出た。――体面を重んじるH町と小樽の教育会が動き出した。岸野に「かかる不祥事を未然にふせがれるように」懇願した。

 労働組合に所属しているもののいる工場や沖、陸の仲仕などが「同情罷業」をしそうな様子がありありと見えてきた。

 ――今迄暗に力添えをしていた他の資本家が、岸野に「何んとかしてくれなければ」と云い出してきた。

 事態が急に変ってきた。

 調停委員が立てられた。市会議員五名、警察署長、弁護士、労働組合代表、農民組合代表、小作人代表、有力新聞記者、岸野側。――物別れを繰りかえしながら、三度、四度と会見を続けた。

 そして出樽以来三十七日間の苦闘によって、地主岸野は屈服した。――時、一九二七年十二月二十三日、午後九時四十八分。

 その日の「ビラ」は組合員の手から都会の労働者に、――全道の農民組合の手から小作人に――配られた。


 ┌─────────────────────────┐

 │ …………………………………………………………… │

 │ 小作人は今や昔日の生存権なき農奴より、戦闘的労 │

 │ 働者階級の真実の「同盟者」たり得ることを立証し │

 │ た。                      │

 │  封建的搾取と闘うために!           │

 │  耕作権確立のために!             │

 │  日本農民組合に加入せよ!           │

 │  労働者と農民は手を結べ!           │

 │ 「労」「農」提携争議大勝利、万歳※       │

 └─────────────────────────┘

  [#罫内の「※」は「※(感嘆符二つ、1-8-75)」]


     「もう五つ――」


 争議団は小樽の労働者達に見送られて、――一ヵ月以上の「命がけ」の(伴は、あとで思い出すと、背中がゾッとする、とよく云っていた。――よくまアやってきたもんだ。)闘争の地を後にした。

 あと九ツでH停車場だ!――もう七ツだ――もう五ツ――四ツ――三ツ、と、なると皆は云いようのない気持に抑えられた。近くなればなる程、小作人達はムッつり黙りこんできた。

 ――伴の厚い、大きな肩が急に激しく揺れた。と、ワッと泣き出してしまった。雪焼けした赭黒い顔に、長い間そらなかった鬚が一面にのびていた。――伴は自分の肱に顔をあてた。そして声をかみ殺した。

 嬉しかった! ただ嬉しい。それをどうすればいいか分らないのだ。

 女達も思わず前掛で顔を覆ってしまった。

[#改段]


    十六



     「毎日毎日、一月も考えた。」


「ねえ、健ちゃ……」

 節は余程云い難いことらしかった。

「……お父な、嫁にでも直く行えぐんでなかったら、都会まちさ稼ぎに出れッてるんだども……!」

 ――とうとうそう云った。

「俺……俺一緒にならない。」――健は苦しかった。

「…………※(感嘆符疑問符、1-8-78)」

 暗かったが、節の顔が瞬間化石したように硬わばったことを健は感じた。

「……考えることもあるんだ、俺小樽から帰ってから毎日毎日、一月ひとつきも考えた。……考えたあげく、とうとう決めることにしたんだ……俺は、旭川さ出る積りだよ。」

「……何しに?」

「うん?」

「何しによ?」

「後で分るよ……」

「…………」

 ――節は健のうしろにまわしている手を、何時の間にか離していた。


 健は固い決心で旭川に出て行った。キヌの妹が見送ってきてくれた。

 彼は、そして「農民組合」で働き出した。

――一九二九・九・二九――

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