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日语阅读:振り向けば50年(一)

来源: 万语网 | 更新日期:2007-08-21 18:16:18 | 浏览(148)人次

  ジャパン??アズ??ナンバーワンとまで言われた戦後日本の復興と繁栄。五十年前、一体誰がこの姿を想像したでしょうか。

  あの日、飢えと虚脱感のどん底で聞いたあの声。当時、この焼け跡をニュースカメラマンとして空から撮影した浅井さんが今同じアングルで撮影しています。この空の下に五十年の歳月が流れました。そして、また、日本は雷神ぐさんとして警戒されるようにもなりました。日は沈み、日はまた昇ったんです。

  この頃、日本の最高権力者と言われた人はここにいました。皇居と向かい合ったお堀端のGHQ.連合国軍最高司令官ダグラス??マッカーサー元帥は日本人がかつて神と仰いだ人と肩を並べ、どちらが最高権力者かを無言で示したのです。

  進駐軍と言う名は当時のオールマイティーでした。何事も進駐軍の命によりでなければ始まらなかったのです。進駐軍の命により財閥は解体されました。進駐軍の命による農地解放、進駐軍の命による労働組合の結成。

  食べる物もなく、着の身着のまま、家もなく、食もなく、耐えがたきを耐える日々が始まったのです。

  掘っ建て小屋の民主主義.

  この頃、食べることと着る事に関しては、すべて国からの配給でした。そこに流れたのはラジオからの侘しい配給便りでした。

  家なき人々は駅の地下道をねぐらとしました。むしろにくるまり、冷たいコンクリートの上に寝て、飢えと寒さのため、二度と目の覚めない人が毎日のように出ました。

  米よこせでも、僅か二合三杓の配給もしばしば遅配、欠配したのです。皇居坂下に押し掛けたデモ隊は、天皇陛下の台所を見せろと迫りました。

  レールも車両も老朽化した国鉄は超満員の人々を運びました。乗るほうも命懸け、皆闇米の買い出しです。

  それも一斉取締で一網打尽。やっとの思いで手に入れた食糧は否応なく取りあげられました。活気があったのは闇市です。食べ物なら何でも売れました。その中で宝石のように見えたのはたった一つのお握りでした。

  インフレで物価は鰻登りでした。しかも預金封鎖で使えるのは月に僅か300円。煮る物がなくても鍋が飛ぶように売れました。

  もく拾い、人の捨てた吸い殻でも貴重でした。吸い殻を解して巻けば売り物になるのです。

  主に進駐軍相手の靴磨きは戦争孤児の生きるための手段でした。

  飲兵衛が飲む酒がなくなってお銚子やお猪口を闇市に売ると言う加藤芳郎さんの侘しい漫画。

  樺太や満州、朝鮮などから総てを失った人々が引き上げてきます。吹けば飛ぶような引き揚げ者住宅。あの頃、焼け跡に土地は余っていたのですが、住宅は決定的に不足していたのです。やすぶしんでも高値の花、7万5千円、今ならオークションでしょうか。当時規制があって、東京へは簡単に転入できなかったんです。しかし、大きな家も財産税で取られる事が多かったのです。

  虱が集るのは浮浪児だけではありませんでした。進駐軍は誰彼かまわず殺虫剤のDDTを吹き付けました。虱潰しとはこの事です。

  こんな時代に生まれてきた赤ちゃんこそ災難です。捨てられて、母の愛も知らず、暖かい揺りかごも知らず、団塊の世代はスタートから厳しい運命でした。

  親はなくとも恐らず、自分の才覚でたくましく生きる浮浪児もいました。青空の下に自由がある、焼け跡、闇市こそ僕らの天国。児童福祉法はまだありません。時々、役所の人が捕まえに来ますが、しばらく施設でおとなしくして、また飛び出すのです。

  その頃、ラジオの街頭録音という番組が評判でした。スタジオを出て、社会の現実の中で人々の生の声を聞いたのです。

  当時パンパンガールと呼ばれた夜の女は6大都市で4万人もいたと言われています。この世界の姉御と言われた落町のおときさんのインタビュー.

  戦中からの教科書に墨が塗られました。戦災を受けた学校も多く、教室の足りないところでは、青空教室で六三制がスタートしました。この六??三制も進駐軍の指示でした。学校給食はまだなくて、子供達は皆栄養失調気味でした。

  ところで、終戦直後の家計簿はどうだったのでしょうか。この寺島さん一家は当時花形産業だった炭鉱にいたので、一般家庭より条件がよかったようですが、それでもぎりぎりの生活でした。家計簿数字は当時のインフレーのすごさを物語っています。

  戦後の混乱した家庭経済はどうだったのでしょうか。評論家の今井森夫さんに聞いてみました。

  昭和21年4月10日、新しい選挙制度の元、戦後初めての総選挙が行われた。この時、女性に初めて参政権が認められました。

  婦人議員が大量に誕生、社会党から立候補して、乱闘国会でも壇上でも頑張った事のある山口静江さん。

  昭和21年11月3日、新憲法が公布されました。

  その頃、激化する労働攻勢に不逞のやからと吉田首相が放言。官公庁組合を中心に、一気に二??一ゼネストの気運が高まりました。政府の打倒叫ぶ組合に対し、GHQの方針は抑制に変わって行ったのです。当時、新聞記者として、労働情勢を取材していた小原さんはこう言いました。

  千人の首切りに反対し、ピケットラインを貼って闘争中の東宝撮影所。ここにもレット??パージの嵐が吹き荒れました。警察とともに、米軍も出動、戦車まで姿を現わし、来なかったのは軍艦だけという情況になりました。

  画家平沢が逮捕され、死刑の判決を受けましたが、無罪の判決を叫び続けて、昭和62年獄中で95歳の生涯を終えました。

  八高線の買い出し列車の転覆事故。死者174人。生きるための買い出しも命懸けだったのです。下山さんはやがて国鉄総裁となりました。ドッジラインによる人員整理を通告する朝、行方不明となり、間もなく轢死体となって発見されたんです。自殺か他殺か、未だに謎に包まれたままです。

  第二次人員整理通告の後、今度は三鷹事件、続いて松川事件。国鉄をめぐる大事件が続く中で、九万五千人の大量首切りが行われたのです。

  1948年、極東軍事裁判、勝者が敗者を裁いたとも言われました。右翼イデオローグ、大川周明のパフォーマンス。彼は精神障害とされ、被告から除外されました。の一隅、かつて公衆大のあった所。同じ敷地にはその後サンシャインビルが立ちました。しかし、戦争責任と戦後補償の問題は未だに後を引いています。

  異国の陸から待ちかねた帰国です。厚生省の調べによりますと、ソ連からの帰国者は総数47万3千人に上ります。その中に、巨人軍の水原選手の姿もありました。彼はここからまっすぐ後楽園球場へ駆けつけました。飢えと寒さと重労働でシベリアの土になってしまった人は5万5千人と言われています。岸壁の母はいつまでも待ち続けました。

  銀座、昔の面影はありませんが、柳は芽を吹きました。元気がよかったのは笠置静子さん、暮しの苦労なんか吹き飛ばすような音楽でした。国民の寵児番組の始まりです。

  その場で当たるスピード籤.いろんな籤がありました。野球籤、相撲籤、そして貧乏籤.当たりはタバコ。そのごろ、タバコはまだ配給で、結構貴重品でした。人気を呼んだのは‘ピース’。これに対して、安い闇タバコも出現しました。どんなルートで出回るのか正体不明の闇タバコ。その取り締まりです。

  この頃、流行したのはヒロポンを売って世相を書きなぐった流行作家もいました。

  性の解放は戦後の風俗。芸術か、猥褻か、いつの時代でも論議の種です。かすとり雑誌の氾濫.

  混乱の世相にいろいろな宗教が現れました。踊り宗教もその一つです。踊って陶酔するのはテンポが違っても、ディスコと変わりはないようです。

  各地への巡幸で昭和天皇の人気は大変でした。当時、経済復興の原動力だった炭鉱の激励のため坑内にも入られたのです。

  東西冷戦構造の一角が破れ、朝鮮半島では昭和25年6月、熱い戦争が始まりました。北から南まで激しい戦火が広がり、一つの民族が引き裂かれました。この戦争が日本に砲弾やジープや毛布を作る特需景気をもたらしたのです。金編と糸編のブームと呼ばれました。

  昭和26年9月、サンフラウウシスコ講和条約の調印が行われました。翌年4月、条約が発効、日本は7年間の占領時代時代に終わりを告げ、国際社会に復帰しました。その直後、いわゆるメーデー事件が起こりました。皇居とGHQの目の前で繰り広げられた流血の乱闘、もうそのとき、マッカーサー元帥は退任されて、アメリカへ去っていきました。

  米軍が朝鮮半島へ出動して、がら空きとなった日本の防御のため、マッカーサーの指示で警察予備隊が誕生、やがて保安隊、自衛隊と名を変えていきました。

  昭和29年9月、洞爺丸事故、1155人の乗客が台風の荒れ振るう北の海に飲み込まれました。同じ年、もう一つの悲劇の船、ビキニ水爆実験の死を浴びた第五福龍丸。副船長久保山合吉の死は原水爆反対の運動を全国に広げました。そして、広島の第一回原水爆禁止世界大会と発展したのです。昭和29年2月、造船業界と政界の癒着に検察のメスが入り、当時の自由党幹部や造船会社のトップが次々と逮捕されました。いわゆる造船疑獄です。

  三木トリローグループの冗談音楽は庶民のやり場のない怒りを山葵の利いた風刺で晴らすラジオの人気番組でした。

  国民を元気付けたのは湯川博士のノーベル物理学賞受賞でした。湯川さんは後にノーベル物理学賞受賞する共名賀博士と共に核廃絶を訴え続けました。

  富士山の飛魚、古橋広之進、泳ぐたびに世界記録をぬりかえ、日本人に自信を回復させたヒーローでした。

  戦後初めて来日した本場アメリカの大リーグ選抜チーム。

  昭和28年2月、いよいよテレビ時代、NHK東京テレビの開局です。番組はすべて生放送、演ずるほうも撮る方も手探りの本番でした。街頭テレビの人気が集まり、中出も人々を熱狂させたのはプロレス中継でした。

  昭和28年、当時貴重品だったカラーフィルムで撮影した東京の風景です。銀座四丁目をのんびりと馬車が通っていました。数寄屋橋はまだ健在、待人来らず。

  競輪、地方自治体は暫くこのギャンブルの寺銭で潤いました。大罠もあれば八百長騒ぎもあり、とにかく大衆の気持ちを引き付けました。

  パチンコ、当時は玉を指で弾いていました。やがて、電動式が登場します。今ではIC制御のハイテク機器となり、年商17兆円もの一大産業となっています。ギャンブルですっからかんになった人を待つのはおけらかいどうの質屋さん。

  ようやく衣食足りて、女性達も美しさへの憧れを知ります。八頭身が持てはやされ、及ばぬこととは知りながら、我もわれもと身長を引き伸ばし、ウェストを引き締めようと頑張りました。オードリヘプハーンに肖ろうとショートカットが流行りました。君の名はまちきまき。流行とは流れゆく事なり、流れ得ずして流行を追う心の悲しさよ。

  昭和31年の経済白書は、もはや戦後ではない、我々は今や異なった時代に直面しようとしていると宣言し、技術革新による近代化はアピールしました。

  昭和30年11月、民主党と自由党の保守勢力が合併し、自由民主党を結成。また、左右社会党が統一され、日本社会党を結成しました。所謂55年体制の誕生です。北方領土返還はなりませんでしたが、これで、日本の国連加盟の道が開けました。

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