吉備真備
「きびのまきび」と読む。奈良時代を代表する陰陽道の達人だが、彼自身は
学者というより政治家である。中国に留学して当地で最新の天文や遁甲など
を学んだらしい。右大臣橘諸兄の側近として仕え、また称徳天皇に仕えて
恵美押勝の乱を平定。自らも右大臣に任じられた。
刀伎直川人(滋岳川人)
「ときのあたい・かわひと」「しげおかのかわひと」と読む。9世紀の陰陽頭。
文徳天皇が亡くなった時(858年)に大納言・安倍安仁に従って墓所を定める仕事
をしたと言われ、今昔物語にその時のエピソードが描かれている。
「滋川新術遁甲書」「指掌宿曜経」などの著作がある。
弓削是雄
9世紀の陰陽頭で式占の達人といわれたらしい。旅先で同じ宿に泊まった男
の夢を占って、その男の危機を救った話が今昔物語にある。弓削氏は物部の
一族で、この氏の出身者としては称徳天皇に仕えた密教僧・弓削道鏡が有名。
春澄善縄(830頃)
藤原良房に抜擢・重用された文章博士。変人で通っていた。弟子を取らない
主義で、子供たちも彼の流れを継がなかったため、その知識は一代で途絶え
ている。良房自身も陰陽道や密教などの神秘思想に詳しかったらしい。
三善浄蔵(891- 964)
菅原道真のライバルとして知られる三善清行(847-918)の八男で、彼自身は
陰陽師ではなく、密教僧である。大峯や熊野で修行をして、祈祷や易筮に
優れていた。村上天皇の皇后・藤原安子が重病をして一度息が止まったのを
蘇生させる。天徳4年の内裏の火災を預言した。平安前期の陰陽道の世界を
締め括る人物。
賀茂忠行(890頃-960頃)
陰陽道宗家のひとつ賀茂家の祖である。賀茂保憲の父、安倍晴明の師。彼自
身は陰陽頭になっていない。射覆(せきふ)の名人で天徳3年(959)に村上天皇
の前でこれを行ったことが伝えられている。応和2年(962)に子の保憲が陰陽
頭に任じられているので、恐らくその頃に亡くなったものと想像される。
この賀茂忠行から平安後期の陰陽道の流れが始まるといっていい。
賀茂氏は神武天皇に従って八咫烏の称号を受けた賀茂建角身命を祖とし秦氏
とともに雄略天皇に仕えて京都を共同で開拓した。京都賀茂神社の神官の家
でもあり、修験道の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)もこの一族の出。
賀茂保憲(917-977)
忠行の子で、陰陽頭まで務めた。彼は陰陽道の内、暦道を実子の光栄に伝え、
天文道を弟子の安倍晴明に伝えた。これによりこのふたつの家が陰陽道宗家
となる。
安倍晴明(921-1005)
日本の陰陽道史の中で最大のスーパースター。伝説が非常に多い。賀茂忠行・
保憲親子に師事した。式神の遣い手で、彼の家では不思議なことが多かった
とも。藤原兼家・道長親子に親しい関係にあり、内裏の鬼門の一等地(現安倍
晴明神社)に邸を構えて、内裏の守護の仕事を行っていたとも。また晴明の母
は橘家の出身との説も。
安倍家は孝元天皇の皇子・大彦命を祖とし、安倍倉橋麻呂は大化改新政権の
左大臣を務め、安倍御主人は右大臣として文武天皇に仕え、竹取物語では、
かぐや姫の求婚者の一人として登場する。正確な血統は不明だが玄宗皇帝に
仕えた安倍仲麻呂も一族とも。
「あへ」は「饗へ」であり天皇の料理番の家系である。晴明以降は陰陽道の
家として栄え、後に邸の場所から土御門家と称した。のちに賀茂宗家が断絶
すると、その流れも受け継いで日本唯一の陰陽道宗家となり、現在も名田庄
で天社土御門神道として存続している。
蘆屋道満
民間説話では晴明のライバルとされる播磨の民間陰陽師。「ドーマン」の名
の元になった。播磨の陰陽師は安倍賀茂といった宮廷陰陽師と並ぶ一大勢力
であり、説話では智徳という播磨の陰陽師も晴明に挑戦したといわれる。
賀茂光栄(939-1015)
賀茂保憲の長男。暦博士。著書「暦林」はのちのちまで陰陽師の指標的な
テキストとして重視された。小右記などにエピソードが描かれている。
安倍吉平(954-1026)
安倍晴明の長男。陰陽博士。古今著聞集・栄花物語・小右記などにエピソ
ードが記されている。
安倍吉昌
安倍晴明の次男。安倍家で最初に陰陽頭を務めた人。
清原頼隆(979-1053)
清原家は賀茂・安倍の両家が陰陽道の中心になってからもしばしば祭祀禁忌
関連の発言を行っている。清原頼隆は明経博士・主計頭。明道・算・陰陽・
暦道などを究め、広く深い知識の持ち主で、当時の居並ぶ公式の陰陽師たち
を圧倒し、その発言は大きな影響力を持っていた。
頼隆の孫の定俊も金神に関して意見を述べている。
安倍泰親(?-1183)
晴明の5代の孫。陰陽頭。賀茂在憲の下で陰陽助を務め、後に頭に就任した。
卜占の達人であったという。
晴明―吉平―時親―有行―泰長―泰親
平家物語・源平盛衰記などにエピソードが描かれている。なお上記の系統で
は、時親・泰長も陰陽頭を務めている。この頃は賀茂家が安倍家を圧倒して
いたが、その中で抜群の能力を持って頭角を現したらしい。藤原頼長・九条
兼実らに重用された。
泰親の子の泰茂(-1188)は九条兼実に信頼され、壇ノ浦合戦(1185)で沈んだ
宝剣の行方を占っている。が残念ながら潮流が激しく引き上げはできなかっ
た。この時期安倍家は多数の流れに分かれているが、この泰茂の系統が結局
正流となっている。
同じく泰親の子の季弘もかなりの腕で賀茂在憲の子の在宣も賞賛していた。
泰親の四男の泰成は玉藻前と対決した説話が神明鏡などに記されている。
賀茂在富(?-1565)
賀茂宗家最後の人。陰陽頭。後継者がなかったので一族の在康の子・在種を
養子にしていた。ところが在種が天文23年(1554)何者かに殺害され、在富は
他の養子を得るため奔走するが実現しないまま永禄8年の9~11月頃死去した。
なお、彼には勘当した子・在昌があって、↓の久脩が失脚したあと陰陽寮に
召され、亡くなったあとはその子の在信が継いでいるが、活動の記録は残っ
ていない。また在信のあとの血統は確認されていない。
安倍久脩(1562-1625)
わずか14歳(1575)で陰陽頭になった秀才である。(1558誕生説もあり。それ
でも18歳だったことになる)
安倍有春+―有脩=久脩
| ↑
+―有高 |
↓ |
賀茂在富==在高―久脩
賀茂在富の急死で賀茂宗家が途絶えてしまったため、山科(藤原)言継の勧告
により安倍宗家の有春の次男・有高が在富の妻の許可を得て在富の養子とい
うことになり在高と名乗って賀茂家を継いだ。ところが在高の兄の有脩にも
跡継ぎができなかったため、久脩は有脩(1527-1577)の養子になり、結局安倍
・賀茂の両家の正統を一人で受け継ぐことになった。
父の在高は突然暦道を継ぐことになったため、技術が追いつかず、永禄11年
(1568)の日食予報を外してしまうなどの失態を犯している。そして有脩も
あまり健康が優れなかったため、多くの人が陰陽道の存続に危機感を抱き、
早期から久脩に英才教育が施されたようである。
しかし久脩は関白豊臣秀次に近かったため、秀次が秀吉に殺害されたあとは
秀吉により左遷され、この時賀茂・安倍両家に蓄積された大量の貴重な資料
が散逸されたとされる。
しかし後に関ヶ原の戦いで豊臣が敗れると、徳川家康により名誉回復。京都
に戻って家康から多くの所領を与えられた。神道の吉田家とも親交があった。
安倍泰福(1655-1717)
安倍久脩の曾孫である。垂加神道・伊勢流神道を学び、これをもとに土御門
神道を確立した。渋川春海との親交が深く、彼ととともに貞享の改暦に携わ
った。これは初めて日本の技術で編纂された暦である。
彼は江戸時代の土御門家の中興の祖といわれる。当時陰陽頭には賀茂一族の
幸徳井家の人がしばしばなっていたが、この主導権を土御門家に奪い返した。
天和3年(1683)には諸国陰陽道支配の綸旨を霊元天皇から得て、これにより
土御門家は全国の陰陽師・萬歳師に免状を与える立場に立つことになった。